自分と向き合うとは。


わたしは、よく、

「自分と向き合う」

という言葉を使う。

 

しかし、この言葉の意味、この言葉から想像できるイメージが湧かない人がいる。

 

まず、自分が今、考えていることにも、今やっている行動にも、『意識』がある。

ほとんどの人は、それを『無意識』だという。

 

無意識とは、ほとんどが自分の『癖』だということを理解していない。

そこには、『思考の癖』というものが存在することを、知らない人が多い。

 

つまり、自分の思考の癖によって発言したり、行動したりしていることを、「無意識だ」と言っているのである。

(もちろん、『無意識とは』という話になれば、それはそれできちんと説明ができるが、ここでは割愛する。)


 

そして、この思考の癖は、自然と思い込みへ変化する。

(ここも、無意識なのだ。)

 

 

先日、ある方(Aさん)との会話の中で、

「師匠の話を聞いて、それを自分が、第三者に伝えないといけないから、師匠の発言を一言一句メモを取っていたら、師匠から、『なぜ、図にしないの?』と言われてしまった。」

 

という、経緯があった。

 

Aさんは、こういう場面では、一言一句メモを取り、半ば丸暗記しなければいけないと、思い込んで今日まで生きてきたのだ。

 

そして、間違いなく、世の中全員が、自分と同じように一言一句メモを取っていると、思い込んでいたのだ。

 

今、これを読んでいる人も、

「は?一言一句メモを取ってるわけないじゃん!」

と思う人と、

「え?一言一句メモを取ってるんじゃないの?」

と言う人に、分かれている。

 

この状況を簡単に説明すると、

前者の方は、別のやり方を知っている。

校舎の方は、別のやり方を知らない。

ということでもあるのだ。

 

Aさんも、別のやり方を知らずに来た。

今まで、誰からも何も言われて来なかったし、別のやり方を誰も教えてくれなかったし。というのが、理由だと思う。

 

この時点で、Aさんは、これまで、思い込みで過ごしてきたことがわかる。




このように、ほとんどの人は、『無意識のうちに』、『思い込んで』、『当たり前のように生きている』のだ。



Aさんは、「図にしなさい」と言われても、やったことがないから、想像(イメージ)できない。想像できないことは、実践もできない。



わたしは、Aさんに、

「それは、理解してえることには、ならない。」

と、伝えた。



実際に、師匠の何がすごいのかを尋ねた。


Aさんからは、抽象的な言葉しか出てこない。

「ここがすごい!」と伝えたいのならば、具体的な情報が必要だ。



例えば、

「この前も、こんな場面があって、〇〇さんがこう言ったら、師匠が『それは〜〜だよ!』と言ったんですよ!私には、その言葉は思いつかなかったのだけど、それを聞いた〇〇さんも、ものすごく納得してて。あーやっぱり師匠はすごいな!と思ったんです!」

 

と、過去の事案と共に具体的な情報を話してくれると、聞き手は納得しやすい。


いかにして、聞き手を納得させるか?

というところに、目的があるはずだ。


しかし、Aさんのパターンだと、その目的もなく、

ただ、自分の説明を、いかに綺麗に、いかにスマートに見せるかということが目的になっていて、聞き手には何も有益な情報は入っていないことにも、気づいていない。


そして、何より、自分自身が、理解する必要がある!ことは、わかっているのだが、そのレベルが甘すぎるのだ。




理解とは?理解するとは?理解したとは?

理解すると、類似した言葉でも、3つは挙がる。


この3つに、それぞれ回答するとすると、あなたはどう回答するだろうか?


『それぞれの言葉の意図』を、あなたがどう理解しているのか。

それは、あなたの回答を聞けば、わかる。



ここまで考えることを、

《頭をつかう》

という。



「そんなことまで考えるの⁈」

と思ったのなら、そんなことまで考えていないのは、自分だけかもしれない。

と、自分に問いを向けることができるかどうか。



「そんなことまで考えるの⁈」

と、その瞬間は思っても、1秒後にはスルーしている人がほとんど。


それで、自分と向き合えることは、ない。



《自分と向き合う》には、

どれだけ、《自分に問いを向けられるか?》だ。




あなたが、今、右手でコップを持ったのは、なぜか?

あなたが、なぜ、左足から靴を履いたのか?


その問いに、どれだけ答えられるか。


その答えが、あなたの行動の《意図》である。



意図がないところで、分析するのは至難の業。

自己分析をするには、自分に問いを向けて、自分で回答をする。そこで見えてくる意図から、自分がどのような思考で生きていくのかを探るのだ。




そんなことまで考えて生きている人なんているのか?



そう思う人もいるだろう。


それは、あなたのこれまでの環境の中で、たまたまそういう人に出会って来なかっただけの話。


そして、そこまで考えなくても生きていける世界に、あなたがいただけのこと。




《自分と向き合う》とは、

常に、自分に問いを向け、その問いに自分で答え、その答えから、自分の意図を見出し、その意図から、自分が何を考え(思考)生きているのかを、知ること。

『客観的自己分析』ともいう。


これができなければ、進歩はできないし、

進歩したと思っても、一瞬のうちに元通りになる。




あなたが、その先の世界に行きたいと思うなら、

この程度の努力は、歯を磨くことと同じレベルなのだ。