こういう生業をしていると、
「結婚できますか?」
という質問も多いが、
同じくらい多いのは、
「結婚したけど、相手の家族とうまくいかない。」
という、いわゆる、嫁姑問題。
結婚は、
憲法24条1項が「婚姻は両性の合意のみに基いて成立する」と規定
と、されているが、これは、婚姻届を出せる理由の1つであり、[結婚すれば上手くいく]ための条件ではない。
結婚も、人間関係。
親と関わりたくない!と、当人だけでの結婚も多く見られるが、もちろん、正当な理由があるだろう。
しかし、結婚は、『自分にも相手にも責任を持ち続ける必要がある。』のだ。
この場合の『相手』は、配偶者だけでなく、子どもや、親(縁を切るにせよ)、親族、友だちと、多岐にわたる。
結婚するのは、両者の合意のみで進められるが、結婚生活となれば、それだけでは進められない。
あらゆる場面で、自分たちの責任を示していく必要がある。
嫁姑問題も、縁を切りたい!と思う人はたくさんいる。
しかし、切ってしまったら、
子どもたちが不憫ではないか?
本当に良いのだろうか?
と、悩む。
この直感は、正しい。
なぜなら、子育てにしろ、人生にしろ、気に入らない人間を、排除していくことは、自分が孤立していくことになるからだ。
相手から、排除された場合は、やむを得ない場合もあるが、
自分が、そういう判断の直面にあるときに、
頭の片隅で、「良いのかな?」悩むのは、自分でも、
それは解決するのではなく、問題から逃げているだけなのでは?
と、気づいているからかもしれない。
わたしが、そういう相談を受けるときは、
相談者の言い分を含め、簡単な相関図をイメージする。
そして、相手の様子(行動や言動)、相手側の様子などを確認する。
すると、相手の癖が視えてくる。
しかし、そのほとんどの癖は、思考の癖で、
それは、巷に出回っている心理学関連の知識(本)で、まかなえる。
しかし、相談者に、その知識がない。
もちろん、相手にも、その知識はない。
と、なれば、知識のない者同士の、いさかいだ。
わたしは、心理学の観点からの説明と、わたしが経験してきた具体例などを交えて、説明をするのだが、
場合によっては、わたしが持っている心理学や脳科学の本を貸し出すこともある。
(本は、無料で貸し出しています。サロンや、17.cafeにお越しの際に、お問い合わせください。)
大抵のことは、これで解決の糸口は見つかる。
決して相手を押さえつけたり、勝った負けたの勝負と化すのではなく、
自分に知識が増えることと、感情のコントロールは、大抵比例する。
つまり、バカほど、感情のコントロールができないのは、そういうことだ。
バカは、我慢する。
知識があれば、理解する。
↑
この違いなのだ。
知識を得ても、
「なんで、私ばかり!」
と、感情のコントロールができない人もいるが、それは、自分の価値観の中に、『損得勘定』があり、それが作用する。
いくら知識を得ても、自分がラクをしたい!という思いが勝れば、その知識を発揮することはなく、持ち腐れだ。
知識を得ても(インプット)、それを発揮する(アウトプット・実践・実行)ことかできなければ、結果は、知識を知らないと同じ。
こういうことにすら、気づかない人はたくさんいるのだ。
次に、結婚となれば、土地柄、地域柄というものも、関係してくる。
文化風習は、地域によって違う。
言葉(方言)ひとつ、本当に細かく違う。
[言葉(方言)の違いは、文化習慣の違い。]
ということ知らない人が多すぎる。
同じ日本でも、異文化は本当にたくさん存在する。
スタンダードな日本文化に加え、土地柄・地域柄というものが、存在する。
それは、日本はかつて、今のように、日本という1つの大きな国としておさめられていたのではなく、
それぞれの地域で、たくさんの王朝(王国)が存在していた。
「出雲」「大和」「富士」「日向」「日高見」など聞いたことはないだろうか。
実際のところは、もっと多く存在していたと考えられる。
それらは、渡来人などが来たタイミングでの話し合いや、戦いなどで、それぞれの王朝の範囲なども変化していった。
戦国時代〜江戸時代にもなれば、藩によっておさめられていた。
大分市(豊後国)の中でも、藩主同士の約束事などで、急に熊本の藩主がその土地をおさめることになったなど、さまざまな歴史があった。
そういった経験を受け継ぐ中で、それぞれに独自の文化風習があるのは、もはや当然である。
自分にとって、都合の良い悪いの判断材料ではなく、自分たちの先祖が、苦悩や苦労の中で、生き抜いてきたからこそ、わたしたちが存在している。
そういう客観的視点を、普段の生活から養っていかなければ、本当の先祖供養にもならないのではないか。
自分が知っている文化風習が、世界共通だと思わないことだ。
(これも自分に知識がないからこその、いさかいとなる。)
特に、方言が強く残る地域は、独自の文化風習が根強く残っているかもしれない。と、1つの仮定として頭の片隅に持っているといいだろう。
いろいろな文化風習がある中で、誰もが、特に違和感を覚えるものが、【男尊女卑】である。
これは、わたしが住んでいる大分県でも、地域や家系によっては、未だに根強く残っている。
それが、良いとか悪いとかのジャッジの議論を、この場でしたいのではなく、
【男尊女卑】という言葉は、あとから付けられたもので、その地域の方々は、風習として、「それが当たり前」として、生活してきたのだ。
(この点に、良し悪しのジャッジは今は必要ない。)
あなたが、
「今日から、家の中でも靴を履いて生活すること。」
と言われたら、難しいように、文化風習を変えることは、容易ではない。
わたしが生まれた地域でも、男尊女卑は見え隠れしていた。
わたしの祖父母は、大正生まれで、へき地での生活だ。女性が社会に出て仕事をするなんて価値観は、まだ乏しかった。
母親が嫁いできたとき(昭和50年頃)には、集落では、女性が車の運転をしている人は、1人もいなかった。
嫁げば、女性は家事・子育てと、畑仕事(野良仕事)で一生を終える。
そんなことが、「当たり前」だった。
そこにわたしの両親は風穴を開けた。
(というもの、そんなへき地に嫁ぐ女性など、その当時はすでに少なくなっていた。
そんな時に、母親は救世主である。)
父親はこれからの世の中を考え、母親と相談をして、母親は運転免許を取得し、外に保育士として仕事に行くことになった。
(母からすれば、『仕事を続ける』ということだ。)
世の中の流れでは、女性の生き方はすでに変化していいたが、その地域では、それが本当に珍しかったようだ。
祖父は、毎日のように、
「うちの嫁女は、外に遊びに行きよる。」
と、嫌味を言う。
わたしが生まれてからは、わたしにも、そのように言い聞かせていた。
もちろん、わたしは、3歳当時から、
「お母さんは、仕事に行きよんのよ。」
と、事実を祖父に言うが、祖父は理解できないのではなく、認めたくなかったのだ。
男尊女卑は、食卓でも、祖父と父親には刺身があるが、女性と子どもの分はない。
(わたしが、男子だったら、もしかしたらあったのかもしれないが。)
とはいえ、わたし自身は、刺身が食べたいとも思っていないので、その光景がおかしいな。というよりは、そんなもの。だった。
母親は、自分が外に仕事に行っているからこそ、そのお金で、魚屋さんに行き、ほぼ毎日、刺身を購入していたので、歯がゆい気持ちは強かっただろう。
ただ、母親は、ちょっとやそっとで負けるような根性ではなかったので、わたしからみれば、じゅうぶんに闘ったと思う。
4〜5歳頃のわたしは、
何度か、朝方の台所で、しゃがみ込んで泣いている母親を見つけ、
「どしたん?」
と母に尋ねると、母が、
「おじいちゃんがね、私をいじめるんよ。」
と、話してくれた。
「そうなん?」
と、ただ、話を聞くわたしは、心の中で、
「じいさんは、先に死ぬから、がんばれ!」
と思っていた。
今でこそ、産休・育休は、じゅうぶんに保障されるが、当時は、産休しかなかったために、産後は1か月で仕事復帰。
生後1か月のわたしを、祖父母に預けて、仕事に行くのはどんなに、辛かっただろうか。
それどころか、
産後には、母親は自分の実家に帰って休んでいたが、当時は、赤ちゃんの[お七夜]のお祝いをしていたために、電話で帰ってくるように呼び出され、わたしと一緒に自宅に帰り、産後1週間で母親は、お祝いのために来てくれた、20人分のお客さんの食事づくりをしたのだ。
※お七夜・・おしちや。赤ちゃんが産後無事に1週間を過ごしたお祝い。そのときに、命名式も行う。
おそらく、祖母もそうやって、産後も忙しなく生きてきたのかもしれない。
祖父は、母親に嫌味を言うが、祖母は、わたしにだけこっそりと、
「お前が結婚するときは、お前のお母さんのようにならんといけん。」
と、言っていた。
祖母は、母親を羨ましく思っていたのだろう。
祖母は、文字もカタカナしか書けなかった。
母親が、自分の人生を、自分で切り拓く姿を見ては、こんな生き方があったのか!と驚きの連続だったのかもしれない。
そんな地域には、夏は盆踊りの風習があった。
その年の初盆の家に、集落の全員が行き、庭先で盆踊りを踊る。
歌い手は、男性が唐傘をさし、アカペラで節回しをしながら、歌い始める。
その歌が始まったら、踊り手はうちわを持ち、踊り始める。
だんだんと、踊りが揃ってくると、歌い手が、アドリブで、
「揃った 揃ったよ 踊りが揃った(🎶)」
と、踊りの状況を歌で表現する。
そして、歌の本題の歌詞を歌いだす。
踊りの種類は、わたしが知っているだけで、5種類くらいある。
すべて、歌もリズムも節回しも違うが、歌い手は、上手に歌う。
次の踊りに移るときは、次の歌い手がスタンバイする。
そのときに、
「あいや うれしや 音頭さんが見えた
次の音頭で すったりこんと 渡す(🎶)」
と、アドリブで歌い、さっと唐傘とマイクを渡す。
すると、次の歌い手が
「変えた 変えたよ 音頭を変えた(🎶)」
と、タイミングよく、しかし、リズムはガラッと変え、アドリブで、次の踊りに移ったことを知らせる。
それを聞いて踊り手も、素早く踊りを変える。
なんとも、高度な盆踊りだ。
それを、その地域では当たり前に受け継いできた。
しかし、高度な歌唱力が必要で受け継げる人も少なく、わたしの両親の年代が、全盛期だったのかもしれない。
わたしは、その盆踊りが大好きだった。
今から、10年前までは、行なっていたので、毎年、参加していた。
ひとしきり、踊った後に、休憩が入る。
初盆の家が、お客をもてなすのだが、そこでも、面白い風習があった。
休憩に入ると、庭にブルーシートが敷かれる。
わたしたちは、そこに靴を脱いで、座る。
その傍で、
「どうぞどうぞ、中に入ってください。」
と言う声が、聞こえる。
その家の仏間には、長テーブルが設置され、座布団が敷かれる。
テーブルの上には、ちょっとした料理と、お茶碗に注がれたご飯。瓶ビールとコップ。お箸が並ぶ。
そこには、その地域の長老をはじめとした、男性のみが招かれる。
一方、ブルーシートの上では、
わたしが子どもの頃は、お皿もお箸もなく、おにぎりや、煮しめもの、お漬物が入った大皿が次々と回ってくる。
少しずつ、手のひらに取り、(手をお皿代わりにすることを、『おてしょ』と言う。)いただく。
缶ビールが少しと、缶ジュースとお菓子も、回ってくるのを、みなさんで分け合っていただく。
つまり、
【男は、座に。女(おなご)・子どもは、地に。】
なのだ。
これが、わたしは子どもの頃から、面白くて仕方なかった。
誰も何も異論もせず、当たり前のように、それぞれに賑わう。
外から見れば、かなりの異文化だろう。
しかし、それはそれで、今日まで繋いできたのだ。
良し悪しではなく、文化とは、風習とは、そういうことなのだと、わたしは学んだ。
男は座に。女は地に。
これを、普段から強いることはしないが、
場合によっては、その土地の文化として、風習として根強く残っていることがあることを、知っておくだけでも、かなり、悩みは減るはずなのだ。
違う土地で生まれた者同士、育った環境の違いはもちろん、文化風習にも必ず違いがあるのだと、知ることだ。
ほかにも、アドバイスは多岐に渡る。
具体的に聞きたい方は、どうぞ、サロンにお越しいただきたい。
「結婚できますか?」
という質問も多いが、
同じくらい多いのは、
「結婚したけど、相手の家族とうまくいかない。」
という、いわゆる、嫁姑問題。
結婚は、
憲法24条1項が「婚姻は両性の合意のみに基いて成立する」と規定
と、されているが、これは、婚姻届を出せる理由の1つであり、[結婚すれば上手くいく]ための条件ではない。
結婚も、人間関係。
親と関わりたくない!と、当人だけでの結婚も多く見られるが、もちろん、正当な理由があるだろう。
しかし、結婚は、『自分にも相手にも責任を持ち続ける必要がある。』のだ。
この場合の『相手』は、配偶者だけでなく、子どもや、親(縁を切るにせよ)、親族、友だちと、多岐にわたる。
結婚するのは、両者の合意のみで進められるが、結婚生活となれば、それだけでは進められない。
あらゆる場面で、自分たちの責任を示していく必要がある。
嫁姑問題も、縁を切りたい!と思う人はたくさんいる。
しかし、切ってしまったら、
子どもたちが不憫ではないか?
本当に良いのだろうか?
と、悩む。
この直感は、正しい。
なぜなら、子育てにしろ、人生にしろ、気に入らない人間を、排除していくことは、自分が孤立していくことになるからだ。
相手から、排除された場合は、やむを得ない場合もあるが、
自分が、そういう判断の直面にあるときに、
頭の片隅で、「良いのかな?」悩むのは、自分でも、
それは解決するのではなく、問題から逃げているだけなのでは?
と、気づいているからかもしれない。
わたしが、そういう相談を受けるときは、
相談者の言い分を含め、簡単な相関図をイメージする。
そして、相手の様子(行動や言動)、相手側の様子などを確認する。
すると、相手の癖が視えてくる。
しかし、そのほとんどの癖は、思考の癖で、
それは、巷に出回っている心理学関連の知識(本)で、まかなえる。
しかし、相談者に、その知識がない。
もちろん、相手にも、その知識はない。
と、なれば、知識のない者同士の、いさかいだ。
わたしは、心理学の観点からの説明と、わたしが経験してきた具体例などを交えて、説明をするのだが、
場合によっては、わたしが持っている心理学や脳科学の本を貸し出すこともある。
(本は、無料で貸し出しています。サロンや、17.cafeにお越しの際に、お問い合わせください。)
大抵のことは、これで解決の糸口は見つかる。
決して相手を押さえつけたり、勝った負けたの勝負と化すのではなく、
自分に知識が増えることと、感情のコントロールは、大抵比例する。
つまり、バカほど、感情のコントロールができないのは、そういうことだ。
バカは、我慢する。
知識があれば、理解する。
↑
この違いなのだ。
知識を得ても、
「なんで、私ばかり!」
と、感情のコントロールができない人もいるが、それは、自分の価値観の中に、『損得勘定』があり、それが作用する。
いくら知識を得ても、自分がラクをしたい!という思いが勝れば、その知識を発揮することはなく、持ち腐れだ。
知識を得ても(インプット)、それを発揮する(アウトプット・実践・実行)ことかできなければ、結果は、知識を知らないと同じ。
こういうことにすら、気づかない人はたくさんいるのだ。
次に、結婚となれば、土地柄、地域柄というものも、関係してくる。
文化風習は、地域によって違う。
言葉(方言)ひとつ、本当に細かく違う。
[言葉(方言)の違いは、文化習慣の違い。]
ということ知らない人が多すぎる。
同じ日本でも、異文化は本当にたくさん存在する。
スタンダードな日本文化に加え、土地柄・地域柄というものが、存在する。
それは、日本はかつて、今のように、日本という1つの大きな国としておさめられていたのではなく、
それぞれの地域で、たくさんの王朝(王国)が存在していた。
「出雲」「大和」「富士」「日向」「日高見」など聞いたことはないだろうか。
実際のところは、もっと多く存在していたと考えられる。
それらは、渡来人などが来たタイミングでの話し合いや、戦いなどで、それぞれの王朝の範囲なども変化していった。
戦国時代〜江戸時代にもなれば、藩によっておさめられていた。
大分市(豊後国)の中でも、藩主同士の約束事などで、急に熊本の藩主がその土地をおさめることになったなど、さまざまな歴史があった。
そういった経験を受け継ぐ中で、それぞれに独自の文化風習があるのは、もはや当然である。
自分にとって、都合の良い悪いの判断材料ではなく、自分たちの先祖が、苦悩や苦労の中で、生き抜いてきたからこそ、わたしたちが存在している。
そういう客観的視点を、普段の生活から養っていかなければ、本当の先祖供養にもならないのではないか。
自分が知っている文化風習が、世界共通だと思わないことだ。
(これも自分に知識がないからこその、いさかいとなる。)
特に、方言が強く残る地域は、独自の文化風習が根強く残っているかもしれない。と、1つの仮定として頭の片隅に持っているといいだろう。
いろいろな文化風習がある中で、誰もが、特に違和感を覚えるものが、【男尊女卑】である。
これは、わたしが住んでいる大分県でも、地域や家系によっては、未だに根強く残っている。
それが、良いとか悪いとかのジャッジの議論を、この場でしたいのではなく、
【男尊女卑】という言葉は、あとから付けられたもので、その地域の方々は、風習として、「それが当たり前」として、生活してきたのだ。
(この点に、良し悪しのジャッジは今は必要ない。)
あなたが、
「今日から、家の中でも靴を履いて生活すること。」
と言われたら、難しいように、文化風習を変えることは、容易ではない。
わたしが生まれた地域でも、男尊女卑は見え隠れしていた。
わたしの祖父母は、大正生まれで、へき地での生活だ。女性が社会に出て仕事をするなんて価値観は、まだ乏しかった。
母親が嫁いできたとき(昭和50年頃)には、集落では、女性が車の運転をしている人は、1人もいなかった。
嫁げば、女性は家事・子育てと、畑仕事(野良仕事)で一生を終える。
そんなことが、「当たり前」だった。
そこにわたしの両親は風穴を開けた。
(というもの、そんなへき地に嫁ぐ女性など、その当時はすでに少なくなっていた。
そんな時に、母親は救世主である。)
父親はこれからの世の中を考え、母親と相談をして、母親は運転免許を取得し、外に保育士として仕事に行くことになった。
(母からすれば、『仕事を続ける』ということだ。)
世の中の流れでは、女性の生き方はすでに変化していいたが、その地域では、それが本当に珍しかったようだ。
祖父は、毎日のように、
「うちの嫁女は、外に遊びに行きよる。」
と、嫌味を言う。
わたしが生まれてからは、わたしにも、そのように言い聞かせていた。
もちろん、わたしは、3歳当時から、
「お母さんは、仕事に行きよんのよ。」
と、事実を祖父に言うが、祖父は理解できないのではなく、認めたくなかったのだ。
男尊女卑は、食卓でも、祖父と父親には刺身があるが、女性と子どもの分はない。
(わたしが、男子だったら、もしかしたらあったのかもしれないが。)
とはいえ、わたし自身は、刺身が食べたいとも思っていないので、その光景がおかしいな。というよりは、そんなもの。だった。
母親は、自分が外に仕事に行っているからこそ、そのお金で、魚屋さんに行き、ほぼ毎日、刺身を購入していたので、歯がゆい気持ちは強かっただろう。
ただ、母親は、ちょっとやそっとで負けるような根性ではなかったので、わたしからみれば、じゅうぶんに闘ったと思う。
4〜5歳頃のわたしは、
何度か、朝方の台所で、しゃがみ込んで泣いている母親を見つけ、
「どしたん?」
と母に尋ねると、母が、
「おじいちゃんがね、私をいじめるんよ。」
と、話してくれた。
「そうなん?」
と、ただ、話を聞くわたしは、心の中で、
「じいさんは、先に死ぬから、がんばれ!」
と思っていた。
今でこそ、産休・育休は、じゅうぶんに保障されるが、当時は、産休しかなかったために、産後は1か月で仕事復帰。
生後1か月のわたしを、祖父母に預けて、仕事に行くのはどんなに、辛かっただろうか。
それどころか、
産後には、母親は自分の実家に帰って休んでいたが、当時は、赤ちゃんの[お七夜]のお祝いをしていたために、電話で帰ってくるように呼び出され、わたしと一緒に自宅に帰り、産後1週間で母親は、お祝いのために来てくれた、20人分のお客さんの食事づくりをしたのだ。
※お七夜・・おしちや。赤ちゃんが産後無事に1週間を過ごしたお祝い。そのときに、命名式も行う。
おそらく、祖母もそうやって、産後も忙しなく生きてきたのかもしれない。
祖父は、母親に嫌味を言うが、祖母は、わたしにだけこっそりと、
「お前が結婚するときは、お前のお母さんのようにならんといけん。」
と、言っていた。
祖母は、母親を羨ましく思っていたのだろう。
祖母は、文字もカタカナしか書けなかった。
母親が、自分の人生を、自分で切り拓く姿を見ては、こんな生き方があったのか!と驚きの連続だったのかもしれない。
そんな地域には、夏は盆踊りの風習があった。
その年の初盆の家に、集落の全員が行き、庭先で盆踊りを踊る。
歌い手は、男性が唐傘をさし、アカペラで節回しをしながら、歌い始める。
その歌が始まったら、踊り手はうちわを持ち、踊り始める。
だんだんと、踊りが揃ってくると、歌い手が、アドリブで、
「揃った 揃ったよ 踊りが揃った(🎶)」
と、踊りの状況を歌で表現する。
そして、歌の本題の歌詞を歌いだす。
踊りの種類は、わたしが知っているだけで、5種類くらいある。
すべて、歌もリズムも節回しも違うが、歌い手は、上手に歌う。
次の踊りに移るときは、次の歌い手がスタンバイする。
そのときに、
「あいや うれしや 音頭さんが見えた
次の音頭で すったりこんと 渡す(🎶)」
と、アドリブで歌い、さっと唐傘とマイクを渡す。
すると、次の歌い手が
「変えた 変えたよ 音頭を変えた(🎶)」
と、タイミングよく、しかし、リズムはガラッと変え、アドリブで、次の踊りに移ったことを知らせる。
それを聞いて踊り手も、素早く踊りを変える。
なんとも、高度な盆踊りだ。
それを、その地域では当たり前に受け継いできた。
しかし、高度な歌唱力が必要で受け継げる人も少なく、わたしの両親の年代が、全盛期だったのかもしれない。
わたしは、その盆踊りが大好きだった。
今から、10年前までは、行なっていたので、毎年、参加していた。
ひとしきり、踊った後に、休憩が入る。
初盆の家が、お客をもてなすのだが、そこでも、面白い風習があった。
休憩に入ると、庭にブルーシートが敷かれる。
わたしたちは、そこに靴を脱いで、座る。
その傍で、
「どうぞどうぞ、中に入ってください。」
と言う声が、聞こえる。
その家の仏間には、長テーブルが設置され、座布団が敷かれる。
テーブルの上には、ちょっとした料理と、お茶碗に注がれたご飯。瓶ビールとコップ。お箸が並ぶ。
そこには、その地域の長老をはじめとした、男性のみが招かれる。
一方、ブルーシートの上では、
わたしが子どもの頃は、お皿もお箸もなく、おにぎりや、煮しめもの、お漬物が入った大皿が次々と回ってくる。
少しずつ、手のひらに取り、(手をお皿代わりにすることを、『おてしょ』と言う。)いただく。
缶ビールが少しと、缶ジュースとお菓子も、回ってくるのを、みなさんで分け合っていただく。
つまり、
【男は、座に。女(おなご)・子どもは、地に。】
なのだ。
これが、わたしは子どもの頃から、面白くて仕方なかった。
誰も何も異論もせず、当たり前のように、それぞれに賑わう。
外から見れば、かなりの異文化だろう。
しかし、それはそれで、今日まで繋いできたのだ。
良し悪しではなく、文化とは、風習とは、そういうことなのだと、わたしは学んだ。
男は座に。女は地に。
これを、普段から強いることはしないが、
場合によっては、その土地の文化として、風習として根強く残っていることがあることを、知っておくだけでも、かなり、悩みは減るはずなのだ。
違う土地で生まれた者同士、育った環境の違いはもちろん、文化風習にも必ず違いがあるのだと、知ることだ。
ほかにも、アドバイスは多岐に渡る。
具体的に聞きたい方は、どうぞ、サロンにお越しいただきたい。
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