続・選ばれし者?


前回の、「選ばれし者」を読んで、みなさんはどんな感想を抱いただろうか?

わたしは、茜の凄さを書きたかったわけではなく、

・『対峙する』ということが、どういうことなのか。
・そもそも、『対峙する』という言葉の意味を理解しているのか。

ということを、考えてもらうきっかけになればと思った。


「茜が凄い。」で、終わる話なら、わたしがわざわざ時間を割いて、ここに書くわけもない。
わたしがここに書く理由は、
「あなたに、立ち止まって、考えてもらいたいから。」


自分の行動・言動においての基準となっている思考に対して、今一度、「本当にそうなのか?」と、確認作業をするきっかけになればという意図があるのだ。


わたしの言葉のほとんどが、この意図があると言っても過言ではない。



立ち止まって考えると、必ず、嫌になる。
自分が今まで当たり前に考えてきたこととは、違う視点で考えるということを、脳が嫌がる。
脳は、変化を嫌う。
変わりたくても変わらない理由の9割は、自分の脳に負けるから。


本当に自分と対峙した人なら、この理屈が納得するだろう。


人間関係だろうが、自分の何気ない体調不良だろうが、最終的には、結局、自分の行動・言動を変えられないことにより、今日も、イライラし、自己嫌悪に陥り、落ち込む。


それは、変化を嫌う自分の脳に負けて、最終的には、普段と何も変わらないことを、当たり前に(無意識に)選択しているから、結果も、当たり前に変わらない。
これが、理解できるだろうか。



例えば、いつものお店で、いつものブラックコーヒーを飲む。
しかし、最近、うまくいかないことが多く、気分転換をしようと、違うお店に行き、そこでブラックコーヒーを飲む。せっかくお店を変えたのに、気分転換がうまく図れなかった。

こういったことは、意外に多いのではないか?

わたしは、過去の茜を見て、このことを学んだ。
気分転換に対して、ものすごく雑で、甘く考えているんだな。と知ったのだ。


気分を変えるということは、印象を変えることでもある。つまり、五感の印象を変えなければ、そう簡単には気分は変わらない。
(五感・・視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚)

せっかく、お店を変えても、ブラックコーヒーは変わらない。ブラックコーヒーに対する、視覚、嗅覚、味覚が大きく変わっていないのに、どうやって脳が気分転換したと認識するのか。 


それほどに、人間は自分のことを雑に扱い、自分自身のことを、分析研究しない。


そして、今日も同じような人間関係を行い、落ち込み、同じような体調不良を感じ、同じように薬に頼る。

それが、自分の選択肢一択だと脳が決めてしまってからは、なかなか変えられない。
何度も言うが、脳は変化を嫌う。
一度、思い込んだものを、なかなか変えられないのは、そういことだ。



茜も、同じだった。
何十年と同じような人間関係。
同じように落ち込み、同じように言い訳をする。
常に、頭痛薬を持ち歩き、服用しては、海外セレブの中で流行る怪しいサプリに手を出す。

何十年と眠りが浅く、栄養は偏り、脳の思考は8歳レベル。日本語の意味は理解せず、いかに自分が損をしないかばかりを考えて過ごす日々。

自分はピエロだと思いながらも、顔で笑って心で泣いているとわかっていながらも、何十年と何も変えられないでいた。変えられない理由は、脳に負けているからなのだが、そんな分析すらできるレベルじゃないために、すべて人のせいにしかできなかった。


そんな状態で、わたしの前に現れた。
ヘラヘラと気持ち悪い笑顔で。

茜の魂を視れば、
「そんな状態でも、よく生きてきたね。」
と、伝えたいと思ったが、

現実、1人の社会人として考えれば、最悪な状態。
当たり前の会話もできずに、中身のない意味不明な言葉を並べて、「自分は悪くない」としか言わない。

それは、『良い』とか『悪い』とかの話ではなく、『異常』なのだ。


わたしも、何度も茜に暴言を吐いてきた。
いや、これは暴言ではなく、事実を伝えただけ。
事実を、他人が聞けば暴言と捉えられるだけのこと。
そこまで言わなければいけない状態だった。そして、言ったとしても、何も響かない状態からのスタート。


茜を成長させても、わたしに何かプラスになる?
そんな打算なんか一切なかった。
むしろ、いない方が、わたしのため。そんなことくらいじゅうぶん、わかっていた。
それでも、わたしは、自分がやっていることに、「1ミリの間違いはない」と、今でも思っている。


こんなレベルの人間と対峙するのに、口論だけで終わるはずもなく、殴り合いの取っ組み合いも日常茶飯事だった。
約2年間は、カラダにアザや傷が絶えなかった。わたしは、肋骨を2回折っている(自己診断)。病院に行けば、オオゴトになることはわかっているので行かなかった。

わたしは、昔の体罰時代のスポーツ界にいたので、良くも悪くも、殴られることに、ある程度の免疫があった。
そのおかげで、殴り合いも取っ組み合いも、怯むことなくぶつかっていった。

茜も、これほどまでに、髪の毛を掴まれて引きずり回されたことはないだろう。
わたしは、茜の髪の毛を掴んで引きずり回しながら、自分の中学時代のスポーツ界を思い出して、今、感じている茜の痛みも、あの頃の自分の痛みと重ね合わせ、同時に、あの時代のわたしの指導者もどれほどまでの覚悟で、わたしとぶつかってくれたのだろうとさえ、考えていた。
(そういう意味では、わたしは常に冷静だった。)


茜は、わたしのそばにいたいと本気で思っていた。
自分を変えたいと本気で思っていた。
それでも、脳の思考に選択肢がないので、脳が茜を支配するのだ。

わたしのそばにいたいと思っていながらも、自分にとって損な結果になると脳が判断した瞬間に、保身のスイッチが入り、わたしに攻撃が始まる。見事なまでにパターン化していた。

茜にとっては、わたしとの対峙は、自分の脳との対峙でもあり、二重の闘いのように感じていただろう。


これを一般的には、発達障害など、なんらかの障害だと位置づける。ただ、わたしは、その位置づけをしたあとに、
「だからといって、特別扱いしない。」で、いたのだ。


平等に考えれば、みんなが同じ土俵の上で、同じ平均点になることが望ましい。

しかしわたしは、人間関係において、平等よりも公平性が土台にあると考えている。


「こんなことがわからない奴は、ダメだ。」
というのは、何かを基準にした平等性だと思う。

わたしのいう公平性は、
「あなたは、わかるはずなのに、なぜわかろうとしないのか?」
ということなのだ。

この違いは、着眼点の違いでもあり、同時に脳内の選択肢の違いでもある。


日本語がわからない人に、「日本語がわからないのはダメだ」は、公平ではない。
その人には、その人が理解できる言葉で伝えるためのなんらかの努力をこちら側も行い、公平になる。

しかし、
日本語がわかる人が、日本語をわかろうとしない場合は、

①日本語を読むことはできるが、意味を読み解くまでの読解力はない。
②日本語も読めるし、意味も理解できるが、自分の何かしらの感情が優先になり、意味を考えることを自らしない。

の、2つの選択肢が生まれる。

①の場合は、経験と勉強を重ねていくしかないが、
②の場合は、その人自身にどんな体験があり、どの体験が、思考に大きく影響を与えているのか?と考える必要があり、さらに分割していく必要があるのだ。


公平性とは、そこまで考えて初めて議論できるものではないかと、わたしは思っている。

しかし、今の世の中、何かにつけて『平等』と『損得』の言葉で溢れ返り、その結果、
[今だけ。金だけ。自分だけ。]
という状態なのかもしれない。

(そう仕組まれて、バカを増やしていきたいのかもしれない。)


少し、長くなってしまったが、平等と公平の話は、またどこかで、しようと思う。


ここまで読んで、わたしが「選ばれし者?」と、最後に「?」をつけた理由がわかれば幸い。