このブログでも、過去に書いたことがあり、座談会などでも、何度も話している、ある事実がある。
わたしは、神社仏閣に興味がない。と、お話するが、かといって、全く無視をしているわけではなく、挨拶にも行くし、様子をうかがうこともある。
「興味がない」は、神社仏閣に対する興味が、みなさんの興味と比べたら、「興味がない」になるだろうと思っている。
みなさんは、どんな気持ちで参拝に訪れるか?
神の前では、どんな気持ちで、どんなつもりで、対峙しているか?
そもそも、対峙しているのか?
「対峙する」という言葉の意味を考えて、過ごしているのか?
・・・
前述したように、わたしは、挨拶にも行くし、様子をうかがいにも行く。
ただ、「神様ぁぁぁぁぁ!!」 と、泣きつくこともないし、怖気付くこともない。
2021年7月。
茜が、わたしのところに来てから、3か月が過ぎていた。
わたしは、とある神社の神に、茜を紹介しようと思いつき、連れて行った。
茜と並び、参拝の中で、
「こんにちは。お久しぶりです。今日は茜を連れてきました。よろしくお願いします。」
と、伝えた。
すると、向こうから、
「え?ん?どこ?」
というような、様子が視えた。
わたしは、
「わたしの横にいるのが、茜です。」
と、答えると、
「え?ん?あー、ホントだ。あー、はいはい。」
というような、様子が視えた。
そのときに、わたしは、ものすごい衝撃を受けたのだ。
参拝するときは、鈴を鳴らしたり、かしわでを打ったりして、神に自分の存在を知らせる。
茜も、わたしの横にいて、わたしと同じように参拝していた。しかし、それが全く聞こえてない。
聞こえていないし、見えてもいなかった。
わたしは、みんなも同じように、神との対話をしているものだと思い込んでいたが、そうではないことを、この時、初めて知ったのだ。
「ほほー。。だから、世の中の霊能者は、信者と共に、神社参拝ツアーをするのか?信者たちを、神に紹介するために・・?」
とも、考えたが、これは、各々の霊能者に尋ねてみなければわからない。
その参拝から2日後、茜から、
「不思議な夢を見た。いや、夢なのか?」
と、連絡が来た。
その夢は、
薄暗い中に、床に茜が座っている。
その様子を、もう1人の茜が見ている。
つまり、そこには、茜の視点が2つあるのだ。
すると、座っている茜の目の前に、大きな大きな白っぽいキラキラした龍が現れた。
それは、ウロコのある龍ではなく、本当にキラキラした毛並みというか、ふわふわしているというか、美しいものだったという。
なかなかの近い距離で、対峙することになり、その様子を見ている茜の方が怖気付いた気持ちになったが、正面で対峙している茜は、微動だにしなかったという。
その龍の呼吸の様子までもがわかる至近距離で、
龍が、茜に、
「お前は、幾重を護れるのか?本当に護ることができるのか?」
と、男性的な声で問う。
その様子を見ていた茜は、驚いて、
「どうする?どうする?」
と固唾を飲む。
しかし、正面に座っている茜の視点では、その問いに対して、
「全身全霊をかけて、護りまする。かしこみ、かしこみ申す。」
と、答えていた。
様子を見ていた茜は、
「かしこみ?え?そんな言葉、つかったことないよ?なにそれ?」
と、不思議に思っている。
すると、正面に座っている茜の視点に切り替わると、目の前の龍が、じーっと、茜の言葉を聞き、しばらくしてから、
「わかった。信じるぞ。」
と、こたえた。
その後、龍はすぐにいなくなるのかと思いきや、その後も、じーっと茜の方を見続けていて、
しばらくすると、パッと目が覚めたというものだった。
その当時は、コンサルが始まったばかりで、まだわたしに「ドブネズミ」と言われている時期だったが、それでも先に、茜の魂と取り決めを行ったのだろう。
その夢からしても、茜のことは、神にも伝わったことがわかる。
ということは、やはり、誰彼、神には見えてないことも、答え合わせができた。
さて、
それから、月日が流れ、2024年のある日。
わたしは、10年以上ぶりに再会した友人に、この話をした。
その友人も、ずーっと悩みを抱えていた。
しかし、わたしからすれば、その悩みは、自分の解釈でどうにでもできることであるし、とにかく、自分に生じた傷を、誰かに癒してもらうことばかりを考えているので、自分と向き合っているようで、実は大事なところは、全部人のせいにしているだけなので、解決する気もない状態。
そのため、問題ばかりが、どんどん積み重なっていて、おそらく、今後も、繰り返していくだろう。
茜の話をするのと同時に、もちろんその友人にも、わたしは、分析と課題を提示し、課題に対峙するヒントを何度も伝えたが、その友人には覚悟がなかった。
自分が変わりたくて、わたしと再会したというよりも、口では「変わりたい」と言うが、本心は、「周りが変われば、自分は幸せなのに!」と本気で思っているので、いざ、自分に課題を提示されると全力で拒否をするのだ。
それでも、わたしは、古い友人のよしみもあり、何かが変わるきっかけとなればと思い、一緒にその神社に行くことにした。
茜と同じように挨拶をしたのだが、なんとなく反応が悪い。
それでも仕方ないな。と思い、参拝のあと、おみくじを引いた。
すると、そこには、
「なんでもかんでも、神に頼るな!」
といったようなことが書かれていて、これまた衝撃を受けた。
「おみくじに、そんなこと書く?笑笑」
あまりにも衝撃的で、写真を撮ることすら忘れてしまった。
しかし、全くもって、その通りなのだ。
覚悟がない人間に、どんな奇跡を見せようとも、それが奇跡とすら認識はできない。
奇跡だと認識しても、それを活かすことはできない。
わたしがどれだけ動いたところで、本人にその気がなければ、それは薬どころか、毒になるだけ。ゴミになるだけなのだ。
そのことを、再確認できた出来事でもあった。
案の定、次の日には、音信不通になった。友人にとっては、非常に居心地が悪かったのだろう。
友人がどんな人生を歩もうとも、本人が選択しているのだから、それで良いのだ。本人にとっては、それが幸せなのだ。
言いかえれば、誰彼、簡単には覚悟は持てない。
いかにラクをして、幸せになるかということばかりに、意識を向けている人間がほとんど。
つまり、
本当の幸せも、本当の愛も、知らないままに生きているということなのかもしれない。
神社の参拝も、神と対峙する前に、神の前で、どれだけ自分自身と対峙できるか。自分自身と約束できるか。
まずは、そこからなのだ。
茜は、優しく人当たりも良い。
人間らしい面もたくさんある。
一見、そこら辺にいる人間と変わらない。
しかし、彼の魂は、そんなものではない。
彼の覚悟は、事実であり、誰彼できることではない。
わたしが、茜をそばに置いている理由のひとつ。
わたしは、神社仏閣に興味がない。と、お話するが、かといって、全く無視をしているわけではなく、挨拶にも行くし、様子をうかがうこともある。
「興味がない」は、神社仏閣に対する興味が、みなさんの興味と比べたら、「興味がない」になるだろうと思っている。
みなさんは、どんな気持ちで参拝に訪れるか?
神の前では、どんな気持ちで、どんなつもりで、対峙しているか?
そもそも、対峙しているのか?
「対峙する」という言葉の意味を考えて、過ごしているのか?
・・・
前述したように、わたしは、挨拶にも行くし、様子をうかがいにも行く。
ただ、「神様ぁぁぁぁぁ!!」 と、泣きつくこともないし、怖気付くこともない。
2021年7月。
茜が、わたしのところに来てから、3か月が過ぎていた。
わたしは、とある神社の神に、茜を紹介しようと思いつき、連れて行った。
茜と並び、参拝の中で、
「こんにちは。お久しぶりです。今日は茜を連れてきました。よろしくお願いします。」
と、伝えた。
すると、向こうから、
「え?ん?どこ?」
というような、様子が視えた。
わたしは、
「わたしの横にいるのが、茜です。」
と、答えると、
「え?ん?あー、ホントだ。あー、はいはい。」
というような、様子が視えた。
そのときに、わたしは、ものすごい衝撃を受けたのだ。
参拝するときは、鈴を鳴らしたり、かしわでを打ったりして、神に自分の存在を知らせる。
茜も、わたしの横にいて、わたしと同じように参拝していた。しかし、それが全く聞こえてない。
聞こえていないし、見えてもいなかった。
わたしは、みんなも同じように、神との対話をしているものだと思い込んでいたが、そうではないことを、この時、初めて知ったのだ。
「ほほー。。だから、世の中の霊能者は、信者と共に、神社参拝ツアーをするのか?信者たちを、神に紹介するために・・?」
とも、考えたが、これは、各々の霊能者に尋ねてみなければわからない。
その参拝から2日後、茜から、
「不思議な夢を見た。いや、夢なのか?」
と、連絡が来た。
その夢は、
薄暗い中に、床に茜が座っている。
その様子を、もう1人の茜が見ている。
つまり、そこには、茜の視点が2つあるのだ。
すると、座っている茜の目の前に、大きな大きな白っぽいキラキラした龍が現れた。
それは、ウロコのある龍ではなく、本当にキラキラした毛並みというか、ふわふわしているというか、美しいものだったという。
なかなかの近い距離で、対峙することになり、その様子を見ている茜の方が怖気付いた気持ちになったが、正面で対峙している茜は、微動だにしなかったという。
その龍の呼吸の様子までもがわかる至近距離で、
龍が、茜に、
「お前は、幾重を護れるのか?本当に護ることができるのか?」
と、男性的な声で問う。
その様子を見ていた茜は、驚いて、
「どうする?どうする?」
と固唾を飲む。
しかし、正面に座っている茜の視点では、その問いに対して、
「全身全霊をかけて、護りまする。かしこみ、かしこみ申す。」
と、答えていた。
様子を見ていた茜は、
「かしこみ?え?そんな言葉、つかったことないよ?なにそれ?」
と、不思議に思っている。
すると、正面に座っている茜の視点に切り替わると、目の前の龍が、じーっと、茜の言葉を聞き、しばらくしてから、
「わかった。信じるぞ。」
と、こたえた。
その後、龍はすぐにいなくなるのかと思いきや、その後も、じーっと茜の方を見続けていて、
しばらくすると、パッと目が覚めたというものだった。
その当時は、コンサルが始まったばかりで、まだわたしに「ドブネズミ」と言われている時期だったが、それでも先に、茜の魂と取り決めを行ったのだろう。
その夢からしても、茜のことは、神にも伝わったことがわかる。
ということは、やはり、誰彼、神には見えてないことも、答え合わせができた。
さて、
それから、月日が流れ、2024年のある日。
わたしは、10年以上ぶりに再会した友人に、この話をした。
その友人も、ずーっと悩みを抱えていた。
しかし、わたしからすれば、その悩みは、自分の解釈でどうにでもできることであるし、とにかく、自分に生じた傷を、誰かに癒してもらうことばかりを考えているので、自分と向き合っているようで、実は大事なところは、全部人のせいにしているだけなので、解決する気もない状態。
そのため、問題ばかりが、どんどん積み重なっていて、おそらく、今後も、繰り返していくだろう。
茜の話をするのと同時に、もちろんその友人にも、わたしは、分析と課題を提示し、課題に対峙するヒントを何度も伝えたが、その友人には覚悟がなかった。
自分が変わりたくて、わたしと再会したというよりも、口では「変わりたい」と言うが、本心は、「周りが変われば、自分は幸せなのに!」と本気で思っているので、いざ、自分に課題を提示されると全力で拒否をするのだ。
それでも、わたしは、古い友人のよしみもあり、何かが変わるきっかけとなればと思い、一緒にその神社に行くことにした。
茜と同じように挨拶をしたのだが、なんとなく反応が悪い。
それでも仕方ないな。と思い、参拝のあと、おみくじを引いた。
すると、そこには、
「なんでもかんでも、神に頼るな!」
といったようなことが書かれていて、これまた衝撃を受けた。
「おみくじに、そんなこと書く?笑笑」
あまりにも衝撃的で、写真を撮ることすら忘れてしまった。
しかし、全くもって、その通りなのだ。
覚悟がない人間に、どんな奇跡を見せようとも、それが奇跡とすら認識はできない。
奇跡だと認識しても、それを活かすことはできない。
わたしがどれだけ動いたところで、本人にその気がなければ、それは薬どころか、毒になるだけ。ゴミになるだけなのだ。
そのことを、再確認できた出来事でもあった。
案の定、次の日には、音信不通になった。友人にとっては、非常に居心地が悪かったのだろう。
友人がどんな人生を歩もうとも、本人が選択しているのだから、それで良いのだ。本人にとっては、それが幸せなのだ。
言いかえれば、誰彼、簡単には覚悟は持てない。
いかにラクをして、幸せになるかということばかりに、意識を向けている人間がほとんど。
つまり、
本当の幸せも、本当の愛も、知らないままに生きているということなのかもしれない。
神社の参拝も、神と対峙する前に、神の前で、どれだけ自分自身と対峙できるか。自分自身と約束できるか。
まずは、そこからなのだ。
茜は、優しく人当たりも良い。
人間らしい面もたくさんある。
一見、そこら辺にいる人間と変わらない。
しかし、彼の魂は、そんなものではない。
彼の覚悟は、事実であり、誰彼できることではない。
わたしが、茜をそばに置いている理由のひとつ。
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