『共依存』と『愛着障害』。


先日、わたしのInstagramで
「共依存の結果、離婚していても、お互いに生き霊を飛ばしあっていた。」
というような投稿をした。

※その投稿は→ コチラ

この、【共依存】という知識がない人間が多く、共依存になんの疑問も持たず、何十年という人生を送っているのが、現状だ。


例) 夫が女遊びをやめないが、その夫を支えるのが自分の役目だと本気で思っている妻が、たくさんいる。
(女遊びは、酒・ギャンブルと並ぶ、依存の表れ。)


→これは、ほとんどの場合、夫は『愛着障害』といわれる状態にある。そして、妻も実は『愛着障害』の可能性が高い。
この場合、わたしが知っているパターンとしては、夫は、妻に精神的に支配されているか、夫が妻を精神的に支配している状態。
そして、妻は妻で、「甲斐性のない夫を支えられるのは、自分しかいない!」と本気で思い込んでいる状態だ。


※共依存※
自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、その人間関係に囚われている関係への嗜癖状態(アディクション)を指す。
すなわち「人を世話・介護することへの愛情=依存」「愛情という名の支配=自己満足」である。
共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平穏を保とうとする。
共依存にある状況では、依存症患者がパートナーに依存し、またパートナーも患者のケアに依存するために、その環境(人間関係)が持続すると言われている。
典型例としては、アルコール依存の夫は妻に多くの迷惑をかけるが、同時に妻は夫の飲酒問題の尻拭いに自分の価値を見出しているような状態である。
(インターネットより参照)

※愛着障害※
(これは、各自で調べてほしい。一応の定義は決まっているが、わたしはこれだけではないと感じている。
グレーゾーンも多く見受けられるのが現状であり、成人後に、反動が出ることも少なくない。)


どちらにせよ、子どもの頃からの親との関わり方(環境)が、影響していることは、間違いない。
とはいえ、大人になって、わたしの元に案内され、そこからもう一度、親との関わり方をやり直すというのは、ものすごく難しい。

親にも「実力」がある。
子どもをどう育てるか?は、親の実力が反映されているのだから。


問題は、その状態に自分が依存することで、自分の子どもにも、自分と同じように影響を与えていることに、気づかないことだ。


こういう場合、子どもをつくることに異様に執着していると、わたしは感じている。
「あなたの子どもが欲しい。」
と、言うことが愛情表現だと本気で思っているし、
そう言われたことが、自分は愛されていると本気で思っている。


わたしは、そこに、疑問を呈す。

「あなたのことを愛しているなら、あなたが居れば良いのでは?なぜ、子どもをつくることに執着されているの?その時点で、あなたはどういう存在なの?」

ここまで、言われなければ、気づかないのだ。

「子どもができれば、相手は変わるかも・・」
そんな、寝ぼけたことを本気で考えている時点で、自分も、子どもを利用して当たり前という思考なのだ。
その状態で、どうやって、深い愛で子どもに寄り添えるのか。


本当に、バカはバカな妄想しかできないでいる。
もちろん、そのような脳の機能になったのも、原因がある。

バカを否定しているのではない。
事実を伝えているだけなのだ。

わたしの言うバカは、脳の機能の偏りによって生じている事象がほとんど。(思い込み/思考の癖/脳のエラー)
脳の機能の偏りは、本人の覚悟の元、ある程度の時間は要するが、その人本来の状態に戻る可能性がかなり高いと感じている。

その前提の元、実際に、わたしはたくさんの人と関わって、脳の機能の偏りを、その人本来の状態に戻してきた。
(もちろん、気を抜けば、すぐに偏る。それだけ、癖というものは、しつこい。)


依存的な思考は、必ず受け継ぐ。
なぜなら、それが環境になるからだ。

代々、受け継いできたものを、自分の代で、是が非でも断ち切ることだ。
それが、何よりも、自分の子どもを守ることになる。
(それが、なかなか理解されない。いや、理解したくないのだ。なぜなら、自分がいつも弱者でいたいから。依存に逃げた方が、ラクだから。)


まずは、自分と向き合うために、勉強すること。
そして、勉強したことは、必ず実践すること。

インプットはしても、アウトプットができないでいる。
実践できなければ、知らないのと同じだ。自己満足で終わることのないように。


実践は、1人でやろうとしても、なかなかうまくいかない。
だから、味方が必要であり、伴走者が必要だ。


知識を教えてくれる本や、講座はいくらでもあるが、
一人一人の実践に、一緒に伴走してくれる存在は、わたししかいない。