人間は、経験に基づくことしか、実践できない。
それは、
経験したことしか、想像ができないから。
想像できることしか、行動できないから。
なので、
自分の子への子育ても、
親が、自分にしてきたようにしか、できない。
親の機嫌がいつも悪かったり、
親が自分の気持ちに共感してくれなかったり、
親が親の考えを押し付けて、モラハラだったり、
バカ親のタイプは様々。
もちろん、それに対して、一定の恨みを心の奥底に抱いたまま、
自分が子育てをする番になったら、
「親のようにはならない!」
と、意気込む。
しかし、
その意気込みは、ただ、親のようにはなりたくないという頭の中だけの思考であって、具体策は取らない。
自分の子育てが、
親よりはマシだという、自分基準のジャッジで、子育てを繰り返す。
しかし、
先に述べたように、
子育ても、自分の経験に基づく想像しか存在せず、結局は、親のやり方しかできない。
親とは違う子育てなど、妄想はしても、具体的な想像は1ミリも生まれないので、
親よりは、怒る回数が少ない。
とか、
親よりは、共感できてるはず。
とか、
親よりは、モラハラはしてない。
とか、
親と比較することしか、できない。
その結果、
親と同じ子育ての仕方で、親よりはマシだろうという世界での子育てをする。
もちろん、
自分の子どもからは、反抗される。
(自分は親に反抗できなかったとしても、自分の子どもは、自分と同一ではないので、反応は違う。)
そうなると、必ず、自分を責める。
親と同じだから・・
自分は親とは違う子育てができない・・
こんなに頑張っているのになんで・・
どうせ自分は存在価値などない・・
↑
この、なんの成長の糧にもならないことに、時間を費やして、自分を責めることに快感を覚える。
おそらく、親も、そうやって自分を責めていたのだと思う。
そういう「親の生き方」を、肌でしっかり受け継いでいるのだ。
ここまで読んで、
この親子に、幸せになる要素があるだろうか?
100%不幸を全うしていて、
幸せになる気は、一切ない。
つまり、
この不幸のカタチが、自分にとってラクなのだ。
人間は、幸せになることよりも、
ラクになることを、優先するということに、
気づくべきだが、
なかなか、気づかない。
そして、
「自分は不幸だから・・」
と、自分責めのテンプレを繰り返すのだが、
それもすべて、ラクだから選択していることなのだ。
それは、
すべて、自分の脳がそう判断している。
親でもなく、他人でもなく、自分の脳が判断している。
↑
このことにも、気づかない。
だから、
年を重ねても、無意識のうちに親を恨む。
親への恨みなら、いくらでも言える。
親への恨みを言わずに生きるにはどうしたらいいか?ということを学ぼうとすることは一切せずに、
「自分はできない」
「自分は変われない」
と、親と同じように諦めることだけは速い。
しかし、親への恨みは、一生やまない。
ということは、
自分もずっと子どもに恨まれることになる。
しかし、自分が恨まれる対象ということになると、それにはショックを覚える。
「こんなに頑張ってきたのに・・」
と、落ち込む。
落ち込むが、それは落ち込むフリで、
頭の中では、また、自分も同じように親を恨む。
そうやって、死ぬまで、この思考を繰り返す。
もはや、無意識のうちに繰り返される、脳のエラーだ。
そして、自分は、「苦しい。」「苦しい。」と、悲劇のヒロイン・ヒーローになる。
最大の問題は、
『子どもも、同じ人生を送ることになる。』
ということなのだが、
子どものことなど、一切、頭にない。
こういう人間ほど、
「子どものことを1番に考える」
とか、
「子どものために」
とか、
バカの一つ覚えレベルで言うが、
子どもの幸せなど、一切考えていない。
お金があろうとなかろうと、
『幸せとは何か?』
を、誰も考えていないのだから、
子どもも、考える余地がない。
「自分と同じ人生を歩ませて、平気か?」
と、尋ねると、
100%、NOと返ってくるが、
「じゃあ、どうするか?」
と、具体的な計画や、今後の目標などは一切ない。
気合いという、腕力に似たものに、頼るだけ。
・・おまえ程度の腕力で、何ができる?・・
結局、何もできずに、
1時間後には、綺麗に元通り。
遅くても、
3日後には、完全に元通り。
わたしは、この25年間、
こういう人間を、たくさん視てきたし、
今も、視ているし、『幸せとは何か?』と、塾生と取り組んでいる。
1人1人、パターンが違う分、手間もかかる。
社会は、こんなふうには寄り添わない。
こんな効率が悪いことは、誰もしない。
そして、できない。
数年前に、ある方に、
当時の、わたしが茜に対する取り組みを、話したことがある。
すると、その方が、
「すごいなぁ。
マニュアルみたいなものができれば、
それでビジネスできますね。」
と、言った。
確かに、そうなのかもしれない。
というか、おそらく、社会の中ですでにあるコーチングなどの業界は、そういうことなのだろう。
しかし、
わたしがやっていることは、
そういうことでは、成果は出ないことを知っている。
人間を一括りにすること自体がナンセンス。
グループ分けにすること自体がナンセンス。
人間の心とは、
人間の脳とは、
そんなマニュアルに収まるほど、
簡単なものではないのだ。
そして、
自分の脳をコントロールするのは、
自分しかいない。
医者や、薬が、
自分の脳をコントロールすることは
できないのだ。
わたしの言う「コントロール」には、
愛がある。
自分で自分に愛を捧ぐことが
何よりも大事。
他人からの愛など、
自分の愛に比べたら、物足りないのは当然。
なぜなら、自分のことは、自分しかわからないのだから。
子どもに幸せになってほしいなら、
『愛』を教えないと、絶対に幸せにはなれない。
自分が、
自分に愛を捧げていないから、
不幸がラクになったことを忘れないでほしい。
『愛』とはなんぞや?
というところから、その原点から、
学び直す必要がある。
考え直す必要がある。
もはや、親など一切、関係ないことなのだ。
自分を護るにも、
子どもを護るにも、
必要なのは、腕力ではなく、『愛』なのだ。
『火事場の馬鹿力』とは、
『愛の深さ』なのだ。
子育てだけじゃない。
どの世界でも同じ。
愛がなければ、幸せにはなれない。
※今年も、幾重塾(心のコンサル)やっています。
同じ日々でも、見え方(捉え方)が変われば、まるで違う景色になる。
(ホームページのメニューにも載せます。)
それは、
経験したことしか、想像ができないから。
想像できることしか、行動できないから。
なので、
自分の子への子育ても、
親が、自分にしてきたようにしか、できない。
親の機嫌がいつも悪かったり、
親が自分の気持ちに共感してくれなかったり、
親が親の考えを押し付けて、モラハラだったり、
バカ親のタイプは様々。
もちろん、それに対して、一定の恨みを心の奥底に抱いたまま、
自分が子育てをする番になったら、
「親のようにはならない!」
と、意気込む。
しかし、
その意気込みは、ただ、親のようにはなりたくないという頭の中だけの思考であって、具体策は取らない。
自分の子育てが、
親よりはマシだという、自分基準のジャッジで、子育てを繰り返す。
しかし、
先に述べたように、
子育ても、自分の経験に基づく想像しか存在せず、結局は、親のやり方しかできない。
親とは違う子育てなど、妄想はしても、具体的な想像は1ミリも生まれないので、
親よりは、怒る回数が少ない。
とか、
親よりは、共感できてるはず。
とか、
親よりは、モラハラはしてない。
とか、
親と比較することしか、できない。
その結果、
親と同じ子育ての仕方で、親よりはマシだろうという世界での子育てをする。
もちろん、
自分の子どもからは、反抗される。
(自分は親に反抗できなかったとしても、自分の子どもは、自分と同一ではないので、反応は違う。)
そうなると、必ず、自分を責める。
親と同じだから・・
自分は親とは違う子育てができない・・
こんなに頑張っているのになんで・・
どうせ自分は存在価値などない・・
↑
この、なんの成長の糧にもならないことに、時間を費やして、自分を責めることに快感を覚える。
おそらく、親も、そうやって自分を責めていたのだと思う。
そういう「親の生き方」を、肌でしっかり受け継いでいるのだ。
ここまで読んで、
この親子に、幸せになる要素があるだろうか?
100%不幸を全うしていて、
幸せになる気は、一切ない。
つまり、
この不幸のカタチが、自分にとってラクなのだ。
人間は、幸せになることよりも、
ラクになることを、優先するということに、
気づくべきだが、
なかなか、気づかない。
そして、
「自分は不幸だから・・」
と、自分責めのテンプレを繰り返すのだが、
それもすべて、ラクだから選択していることなのだ。
それは、
すべて、自分の脳がそう判断している。
親でもなく、他人でもなく、自分の脳が判断している。
↑
このことにも、気づかない。
だから、
年を重ねても、無意識のうちに親を恨む。
親への恨みなら、いくらでも言える。
親への恨みを言わずに生きるにはどうしたらいいか?ということを学ぼうとすることは一切せずに、
「自分はできない」
「自分は変われない」
と、親と同じように諦めることだけは速い。
しかし、親への恨みは、一生やまない。
ということは、
自分もずっと子どもに恨まれることになる。
しかし、自分が恨まれる対象ということになると、それにはショックを覚える。
「こんなに頑張ってきたのに・・」
と、落ち込む。
落ち込むが、それは落ち込むフリで、
頭の中では、また、自分も同じように親を恨む。
そうやって、死ぬまで、この思考を繰り返す。
もはや、無意識のうちに繰り返される、脳のエラーだ。
そして、自分は、「苦しい。」「苦しい。」と、悲劇のヒロイン・ヒーローになる。
最大の問題は、
『子どもも、同じ人生を送ることになる。』
ということなのだが、
子どものことなど、一切、頭にない。
こういう人間ほど、
「子どものことを1番に考える」
とか、
「子どものために」
とか、
バカの一つ覚えレベルで言うが、
子どもの幸せなど、一切考えていない。
お金があろうとなかろうと、
『幸せとは何か?』
を、誰も考えていないのだから、
子どもも、考える余地がない。
「自分と同じ人生を歩ませて、平気か?」
と、尋ねると、
100%、NOと返ってくるが、
「じゃあ、どうするか?」
と、具体的な計画や、今後の目標などは一切ない。
気合いという、腕力に似たものに、頼るだけ。
・・おまえ程度の腕力で、何ができる?・・
結局、何もできずに、
1時間後には、綺麗に元通り。
遅くても、
3日後には、完全に元通り。
わたしは、この25年間、
こういう人間を、たくさん視てきたし、
今も、視ているし、『幸せとは何か?』と、塾生と取り組んでいる。
1人1人、パターンが違う分、手間もかかる。
社会は、こんなふうには寄り添わない。
こんな効率が悪いことは、誰もしない。
そして、できない。
数年前に、ある方に、
当時の、わたしが茜に対する取り組みを、話したことがある。
すると、その方が、
「すごいなぁ。
マニュアルみたいなものができれば、
それでビジネスできますね。」
と、言った。
確かに、そうなのかもしれない。
というか、おそらく、社会の中ですでにあるコーチングなどの業界は、そういうことなのだろう。
しかし、
わたしがやっていることは、
そういうことでは、成果は出ないことを知っている。
人間を一括りにすること自体がナンセンス。
グループ分けにすること自体がナンセンス。
人間の心とは、
人間の脳とは、
そんなマニュアルに収まるほど、
簡単なものではないのだ。
そして、
自分の脳をコントロールするのは、
自分しかいない。
医者や、薬が、
自分の脳をコントロールすることは
できないのだ。
わたしの言う「コントロール」には、
愛がある。
自分で自分に愛を捧ぐことが
何よりも大事。
他人からの愛など、
自分の愛に比べたら、物足りないのは当然。
なぜなら、自分のことは、自分しかわからないのだから。
子どもに幸せになってほしいなら、
『愛』を教えないと、絶対に幸せにはなれない。
自分が、
自分に愛を捧げていないから、
不幸がラクになったことを忘れないでほしい。
『愛』とはなんぞや?
というところから、その原点から、
学び直す必要がある。
考え直す必要がある。
もはや、親など一切、関係ないことなのだ。
自分を護るにも、
子どもを護るにも、
必要なのは、腕力ではなく、『愛』なのだ。
『火事場の馬鹿力』とは、
『愛の深さ』なのだ。
子育てだけじゃない。
どの世界でも同じ。
愛がなければ、幸せにはなれない。
※今年も、幾重塾(心のコンサル)やっています。
同じ日々でも、見え方(捉え方)が変われば、まるで違う景色になる。
(ホームページのメニューにも載せます。)