愛には、小さい大きいもあれば、強い弱いもある。
だけど、そんなことすら知らずに、
「自分の愛は、みんなと同じ!」
もしくは、
「それ以上!」
と思っている人間は、たくさんいる。
そもそも、誰かの悪口を言う人間は、愛が小さい。
その論点を解決しようとはしないのなら、愛は弱い。
なぜ、悪口を言わないといけないのか?
大半は、「自分が正しい」と思っているから。
しかし、自分の正しさを振りかざしても、状況は良くならない。
それを、相手のせいにする。
この繰り返し。
自分の正しさを振りかざしても、状況が変わらないのなら、自分の正しさは、その場では正しくないのかも?と考えることを、謙虚な姿勢と言うのだが、そこは乏しい。
そして、
イライラしているのは、自分だけだということも、
「自分は正しいからイライラしている。」
と思っている。
そして、
自分のイライラに気づかずに過ごしてる相手を、さらに頭の中で非難することになる。
人がイライラしているのを、気づかない人間は、そんなにしない。
みんな、直感は持っていて、人間が発するエネルギーは、何かしらの感じながら生きている。
(自分もそのはずだ。その敏感さは自分だけが特別ではない。)
イライラしているなー
とわかっていても、動じない時点で愛は大きい。
一緒になって乱され、おんなじようにイライラするのなら、相手も自分と同じように、愛が小さい。
愛が大きいと、動じない。
これを、愛が小さい人間は、
「呑気で、鈍感。」
と決めつける。
すなわち、愛が小さい人間は、自分よりも大きい愛には、気づかずに過ごすことになる。
『木を見て、森を見ず。』
目先のことばかりに囚われ、あたかも、それが世界全体だと勝手に思いこみ、この木をどうしたらいいか?ということばかりを考える。
そこには、
その木だけでなく、たくさんの木があり、集団や組織としてそれぞれがどう動いているのかということを、知らなければ、なんの解決にもならない。
ということを、1ミリも知らない人間が、勝手にイライラし、勝手に落ち込み、勝手に自己嫌悪になる。
これを、何十年も繰り返し、結局、解決する方向には進めていないので、一生、誰かのせいにして生きていくしかない。
そして、
「自分がいちばん必死に過ごして来た!」
と上から目線でいることだけは、準備ができているのだ。
ここまで読んで、心が痛い人は多いだろう。
ここに当てはまる時点で、
・客観視
・俯瞰
という知識が、想像できない人間がほとんど。
(この3つの知識がなく、意味を調べても想像ができない時点で、かなり生きづらいのは当然だと思う。)
逆に言えば、愛の大きさは、客観視や俯瞰して見ることは得意かもしれない。
(ただし。愛が大きいからと言って、愛が強いとは限らない。)
つまり、
どの視点から(着眼点から)見ても、
自分自身と向き合うしか、方法はないのだ。
自分自身と向き合うことができれば、イライラすることもない。
それは、決して、穏やかになるということではなく、イライラしても何も解決せず、時間の無駄。
自分の命を、無駄な時間に費やせるか?と考えれば、誰だって、イライラする選択は取らないはずだ。
イライラするのではなく、もっと有益なことを導き出そうとするはず。それは、今の自分の頭の中の知識だけでは、到底、導き出せない。
だから、勉強するしかないのだ。
(幾重塾も、その1つ。)
まずは、
愛にも、大きさがあること。強弱があること。
それを、知ることができれば、2025年はさらに清々しく過ごせるだろう。
だけど、そんなことすら知らずに、
「自分の愛は、みんなと同じ!」
もしくは、
「それ以上!」
と思っている人間は、たくさんいる。
そもそも、誰かの悪口を言う人間は、愛が小さい。
その論点を解決しようとはしないのなら、愛は弱い。
なぜ、悪口を言わないといけないのか?
大半は、「自分が正しい」と思っているから。
しかし、自分の正しさを振りかざしても、状況は良くならない。
それを、相手のせいにする。
この繰り返し。
自分の正しさを振りかざしても、状況が変わらないのなら、自分の正しさは、その場では正しくないのかも?と考えることを、謙虚な姿勢と言うのだが、そこは乏しい。
そして、
イライラしているのは、自分だけだということも、
「自分は正しいからイライラしている。」
と思っている。
そして、
自分のイライラに気づかずに過ごしてる相手を、さらに頭の中で非難することになる。
人がイライラしているのを、気づかない人間は、そんなにしない。
みんな、直感は持っていて、人間が発するエネルギーは、何かしらの感じながら生きている。
(自分もそのはずだ。その敏感さは自分だけが特別ではない。)
イライラしているなー
とわかっていても、動じない時点で愛は大きい。
一緒になって乱され、おんなじようにイライラするのなら、相手も自分と同じように、愛が小さい。
愛が大きいと、動じない。
これを、愛が小さい人間は、
「呑気で、鈍感。」
と決めつける。
すなわち、愛が小さい人間は、自分よりも大きい愛には、気づかずに過ごすことになる。
『木を見て、森を見ず。』
目先のことばかりに囚われ、あたかも、それが世界全体だと勝手に思いこみ、この木をどうしたらいいか?ということばかりを考える。
そこには、
その木だけでなく、たくさんの木があり、集団や組織としてそれぞれがどう動いているのかということを、知らなければ、なんの解決にもならない。
ということを、1ミリも知らない人間が、勝手にイライラし、勝手に落ち込み、勝手に自己嫌悪になる。
これを、何十年も繰り返し、結局、解決する方向には進めていないので、一生、誰かのせいにして生きていくしかない。
そして、
「自分がいちばん必死に過ごして来た!」
と上から目線でいることだけは、準備ができているのだ。
ここまで読んで、心が痛い人は多いだろう。
ここに当てはまる時点で、
・客観視
・俯瞰
という知識が、想像できない人間がほとんど。
(この3つの知識がなく、意味を調べても想像ができない時点で、かなり生きづらいのは当然だと思う。)
逆に言えば、愛の大きさは、客観視や俯瞰して見ることは得意かもしれない。
(ただし。愛が大きいからと言って、愛が強いとは限らない。)
つまり、
どの視点から(着眼点から)見ても、
自分自身と向き合うしか、方法はないのだ。
自分自身と向き合うことができれば、イライラすることもない。
それは、決して、穏やかになるということではなく、イライラしても何も解決せず、時間の無駄。
自分の命を、無駄な時間に費やせるか?と考えれば、誰だって、イライラする選択は取らないはずだ。
イライラするのではなく、もっと有益なことを導き出そうとするはず。それは、今の自分の頭の中の知識だけでは、到底、導き出せない。
だから、勉強するしかないのだ。
(幾重塾も、その1つ。)
まずは、
愛にも、大きさがあること。強弱があること。
それを、知ることができれば、2025年はさらに清々しく過ごせるだろう。