とある方の投稿で、
『人間の行いがどうこうよりも、その人間の魂の色が肝心だ。』
という投稿が目に入った。
わたしの解釈では、
「ハリボテでは、意味がない。」
ということなのだ。
例えば、
「今日は、家族のために!」
と思って、1日頑張ったとする。
しかし、帰ったら、炊事に洗濯に、お風呂掃除・・
だんだんイライラしてきて・・
と、なるのなら、それは『イライラする人』なのだ。
こう言うと、
「じゃあ、イライラを我慢してやらなきゃいけない。」
と思う人間が大半なのだが、
それも結局、我慢してるだけだから、『イライラする人』なのだ。
ーじゃあどうするか?ー
そもそも「今日は、家族のために!」と思ってる時点で、ハリボテなんだと言うこに気づかないといけない。
「今日は」とか「いつかは」とか、物事を限定してる時点で、ハリボテなのだ。
家族は常に共存。
だから、誰かの思いに「歩み寄る」ことも必要だ。
『歩み寄る』とは、なんぞや?
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ここに、つまずいている人が多い。
日頃から、自分を大事にしていれば、同時に、相手も大事にできる。
日頃から、自分に対しても限定的なら、相手に対しても限定的になるのは当然。
日頃の自分を大事にしているなら、自分のキャパを自分がよく知ってる。
『今日は、子どものリクエストのために家族で出かける。』
ってことは、
食事を外食にするとか、お風呂に入ってから帰るとか、洗濯は、明日まとめて洗って、ランドリーで乾かすとか、自分がキャパオーバーにならない提案をちゃんと伝えることなのだ。
イライラしない人は、
自分で勝手に背負わない。
勝手なこと考えないし、しない。
周りにちゃんと伝えて、意思疎通を当たり前に図ろうとしてる人を見たら、
「この人は、人を大事にする人だな。」
と思うはず。
だけど、イライラする人は、そもそも、人を大事にする意識が低いから、ハリボテでしか大事にできない。
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つまり、自分自身を大事にできないから「イライラしたくない!」とは思うけど、自分の感情をコントロールすることは、『我慢すること』の1択しかなくて、具体的な対策案は見出さない。
なぜ、見出さないのか?
「だって、相手が(周りが)気が利かないから。」
と、結局、人のせいなのだ。
『自分のことを大事にすることを、真剣に考えて実践する。』ことを、実行しない人は、一生、幸せにはならない。
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この文面だけを見たら、キツいと感じるだろうが、
勝手に背負って、勝手に考えて、勝手なことをしてるのは、自分。
そんな勝手な人には、手助けしたくても、できない。
だけど、本人は、それすら気づかなくて
「自分はいつも、独り。」
だと勝手に思い込んで、勝手に寂しがっている。
そして、周りを勝手に無視して、勝手な自分の世界に浸る。
勝手な視点で、勝手に答えを出して、勝手にシナリオを作って、勝手に演じてる。
この状態で何をしようが、全部、ハリボテなのだ。
わたしが、Instagramのストーリーズで紹介した、動画をご覧になった方は、わかると思うが、
※その動画は→→《コチラ》
この動画の中で、アフリカの子どもたちは、ショーゲンに、毎日毎日『伝えるために』話しかけてきた。
だけど、ショーゲンは、「はいはい」と、向き合わずに、自分のシナリオで日常を進めていく。
しかし、ショーゲンは何一つ、うまくいかない。
その間も、子どもたちは、見放すこともなく話しかけていた。
それこそが、この上ない、愛なのだ。
だけど、ショーゲンには、その愛を受け取る心がなかった。
目の前に、どんなに綺麗なものがあっても、本人に『綺麗なものに気づきたい!』と、真剣に向き合う心がなければ、一生、気づくことはない。
そして、
アフリカの子どもたちが、
「この人は、言ってもわからない。」
と、諦めていたら、今のショーゲンはなかった。
アフリカの子どもたちは、ショーゲンを信じてやまなかったのだ。
【愛で包む】
とは、そういうことなのだ。
それもまた、魂の色の差なのだ。
自分と向き合うことが、すべての土台になっている。
上手くいかないと、感じる時は、
独りよがりになっていないか、視点を変えて自分を見てみることも大切だ。
自分の環境を大事にしたいのなら、自分と向き合うことを真剣に実践することだ。
自分とならば、恥ずかしいことも、嫌なことも隠す必要がないはずだ。
そして、ひとまず『今の自分』を受け入れることができるようになれば、
相手のことも、ひとまず受け入れられるようになる。
信じた先に、奇跡は起こる。
奇跡は特別なものではないことも、理解できるようになる。