先日、5〜6年ぶりに、とあるお客様がお越しになった。
近況は、時々、耳に入っていたのだが、
ようやく、わたしのところへ、案内されるタイミングだったのだろう。
5〜6年の間に、
大切な人を、突然亡くすという経験をされていた。
それから、いろんなことを学び、考え、実践する日々。
しかし、どことなく、腑に落ちていないのか、自分の立ち位置を見失うような、そんな心境を繰り返していたようだ。
その方は、『視心セラピー(エネルギー調整)』を希望し、施術の間から、いろんなお話をさせていただいた。
以前、お越しになった際には、
わたしから、かなり厳しい話をされたはずで、その言葉は、今でも鮮明に覚えていると言う。
ただ、大切な人を亡くしたあとに、わたしの言葉が紛れもなく『本当にその通りだった。』と、話してくれた。
「なぜ、あとになって、気づくのだろう。よくよく考えたら、なんにも難しいことじゃないのに。」
と、涙ながらに、話してくれた。
それが、『経験の差』なのだ。
以前、わたしが話した時には、その方は、理屈(頭)では理解していたが、「それが、本当にそうだった!」という経験はまだしていなかったので、危機意識も待てなかっただろうし、リアルな想像すらできなかっただろう。
なぜなら、目の前に、大切な人は存在しているし、それを自分の主観で見ていたので、なんなら、自分が『やってあげてる!』という感覚になってしまうのは、誰にでもあることだ。
それが、いざ、大切な人がいなくなった途端に、『いなくなる』という経験をすることになるので、想像できなかったことすら、現実となってしまったということだ。
そうなると、後悔の念が押し寄せてくる。
戻れない日々を思い出しては、
「これでよかったのだろうか?」
「あの人は幸せだったのだろうか?」
と、考えこむのだ。
わたしは、
「余計なお世話ですよ。」
と、伝えた。
「もし、今も、存在しているなら、そんなこと考えてないですよね?」
と、さらに伝えた。
相手がいるか、いないかで、考えるかどうか変わるくらいのことなら、大したことない話なのだ。
相手がどうこうじゃなく、
あなたが、幸せだったのなら、それで良いのだ。
ならば、あなたが幸せだったかどうかを、相手に直接伝えていたか?と聞くと、それも伝えていないはずだ。
てことは、
相手も、それは確かめられずにいる。
お互い様だ。
相手のことを思えば、
「自分が幸せなのだから、相手もきっと幸せだったはずだ。」
と、ポジティブに解釈することが、いちばんお互いのためではないか。
大切な人を亡くしたからこそ、その方は、たくさんのもの(経験や価値観)を得ている。
そのすべてが、お相手からの贈り物なのだ。
こんなにたくさんの贈り物を得ておきながら、
「あの人は幸せだったのだろうか。。」
と、悩み混んでいたのでは、うかばれない。
(自分が、その立場だったら、どう思うか?と考えれば、難しい話ではないはず。)
ひとしきりお話をして、施術もちょうど終盤になった。
施術の最後は、エネルギー調整も終盤を迎えるのだが、その時に、お客様を通して、そのお相手の方の意識?のようなものを感じたので、お客様に、
「お相手の方は、甘いものがお好きですか?」
と、尋ねると、
「好きです。」
と。
続けて、わたしが、
「なんというか、パフェのようなものを食べたいみたいなのですが。」
と、話すと、
「え!実は、生前、桃のパフェを食べに行こう!と約束していたのですが、行けないまま・・」
と、話してくれた。
なるほど。
どうも、お相手の方も、そこをずっと心残りに思っていたのだな。と、
「お早めに、みなさんでパフェを食べに行ってください。その方も、一緒に行きますから。」
と、お伝えすると、ものすごく納得された様子だった。
施術後、お飲み物を召し上がっていただきながら、ゆっくりお過ごしいただく中で、
「なんか、すごくカラダもラクだし、心がとてもスッキリしていて、なんというか、英気が養われたような、とっても不思議な感覚です!」
と。
そして、
「え?幾重さんは、なんで、そんなことまでわかるのですか?」
と、ここに来て、根本的な質問をされ、大笑いしてしまったが、こればかりは、生まれつきのものだから、なんとも上手く説明がつかない。
(素粒子と周波数がどーのこーので、それが波動となりどーのこーの。しかし、「意識」となった時点で、それはまだ科学も追いついていないので、どーのこーの。という話をしたとしても、おそらく解決には至らない。笑)
そういう、ザ・スピリチュアル的なことを全面に出していないのか(いや、わりと出しているつもりだが)、そればかりに頼ったレベルではないから、余計に混乱させるのか・・・。
わたしのやっていることの説明を一言で表すのは、本当に難しい。
エネルギー調整も、わたしが一方的にやるのではなく、ご本人の意識(本心)に、かかっている。
わたしは、その「きっかけ」に過ぎないのだ。
近況は、時々、耳に入っていたのだが、
ようやく、わたしのところへ、案内されるタイミングだったのだろう。
5〜6年の間に、
大切な人を、突然亡くすという経験をされていた。
それから、いろんなことを学び、考え、実践する日々。
しかし、どことなく、腑に落ちていないのか、自分の立ち位置を見失うような、そんな心境を繰り返していたようだ。
その方は、『視心セラピー(エネルギー調整)』を希望し、施術の間から、いろんなお話をさせていただいた。
以前、お越しになった際には、
わたしから、かなり厳しい話をされたはずで、その言葉は、今でも鮮明に覚えていると言う。
ただ、大切な人を亡くしたあとに、わたしの言葉が紛れもなく『本当にその通りだった。』と、話してくれた。
「なぜ、あとになって、気づくのだろう。よくよく考えたら、なんにも難しいことじゃないのに。」
と、涙ながらに、話してくれた。
それが、『経験の差』なのだ。
以前、わたしが話した時には、その方は、理屈(頭)では理解していたが、「それが、本当にそうだった!」という経験はまだしていなかったので、危機意識も待てなかっただろうし、リアルな想像すらできなかっただろう。
なぜなら、目の前に、大切な人は存在しているし、それを自分の主観で見ていたので、なんなら、自分が『やってあげてる!』という感覚になってしまうのは、誰にでもあることだ。
それが、いざ、大切な人がいなくなった途端に、『いなくなる』という経験をすることになるので、想像できなかったことすら、現実となってしまったということだ。
そうなると、後悔の念が押し寄せてくる。
戻れない日々を思い出しては、
「これでよかったのだろうか?」
「あの人は幸せだったのだろうか?」
と、考えこむのだ。
わたしは、
「余計なお世話ですよ。」
と、伝えた。
「もし、今も、存在しているなら、そんなこと考えてないですよね?」
と、さらに伝えた。
相手がいるか、いないかで、考えるかどうか変わるくらいのことなら、大したことない話なのだ。
相手がどうこうじゃなく、
あなたが、幸せだったのなら、それで良いのだ。
ならば、あなたが幸せだったかどうかを、相手に直接伝えていたか?と聞くと、それも伝えていないはずだ。
てことは、
相手も、それは確かめられずにいる。
お互い様だ。
相手のことを思えば、
「自分が幸せなのだから、相手もきっと幸せだったはずだ。」
と、ポジティブに解釈することが、いちばんお互いのためではないか。
大切な人を亡くしたからこそ、その方は、たくさんのもの(経験や価値観)を得ている。
そのすべてが、お相手からの贈り物なのだ。
こんなにたくさんの贈り物を得ておきながら、
「あの人は幸せだったのだろうか。。」
と、悩み混んでいたのでは、うかばれない。
(自分が、その立場だったら、どう思うか?と考えれば、難しい話ではないはず。)
ひとしきりお話をして、施術もちょうど終盤になった。
施術の最後は、エネルギー調整も終盤を迎えるのだが、その時に、お客様を通して、そのお相手の方の意識?のようなものを感じたので、お客様に、
「お相手の方は、甘いものがお好きですか?」
と、尋ねると、
「好きです。」
と。
続けて、わたしが、
「なんというか、パフェのようなものを食べたいみたいなのですが。」
と、話すと、
「え!実は、生前、桃のパフェを食べに行こう!と約束していたのですが、行けないまま・・」
と、話してくれた。
なるほど。
どうも、お相手の方も、そこをずっと心残りに思っていたのだな。と、
「お早めに、みなさんでパフェを食べに行ってください。その方も、一緒に行きますから。」
と、お伝えすると、ものすごく納得された様子だった。
施術後、お飲み物を召し上がっていただきながら、ゆっくりお過ごしいただく中で、
「なんか、すごくカラダもラクだし、心がとてもスッキリしていて、なんというか、英気が養われたような、とっても不思議な感覚です!」
と。
そして、
「え?幾重さんは、なんで、そんなことまでわかるのですか?」
と、ここに来て、根本的な質問をされ、大笑いしてしまったが、こればかりは、生まれつきのものだから、なんとも上手く説明がつかない。
(素粒子と周波数がどーのこーので、それが波動となりどーのこーの。しかし、「意識」となった時点で、それはまだ科学も追いついていないので、どーのこーの。という話をしたとしても、おそらく解決には至らない。笑)
そういう、ザ・スピリチュアル的なことを全面に出していないのか(いや、わりと出しているつもりだが)、そればかりに頼ったレベルではないから、余計に混乱させるのか・・・。
わたしのやっていることの説明を一言で表すのは、本当に難しい。
エネルギー調整も、わたしが一方的にやるのではなく、ご本人の意識(本心)に、かかっている。
わたしは、その「きっかけ」に過ぎないのだ。