先日、このブログを更新しようと、
『命。生きること。死ぬこと。』というタイトルで、ブログを書いていた。
初めて、「うまくまとまった!」と、思った瞬間、パッと消えてしまった。
(キャンセルボタンなどは押していない。)
そのブログを書きながら、ふと思ったことは、
「これを書いて、世に出したなら、そのあと、わたしはなにを書いていけば良いのだろう?」
ということ。
すべての根本的なことを書いているような気がして、その後に書くことが、すべて茶番のようになるのではないか?とすら思った。
・・
それが、正解だったのか、
世に出ることなく、消えてしまった。
消えてしまったら、たった今まで、なにをどう書いていたのかさえ、記憶が途切れ途切れになってしまって、もう一度、書き直すことすら不可能な状態に。
結局、またこうして、このブログを今までどおり、続けることになっている。
先日も、ある会話の中で、「お金がない」という話になった。
お金がないのは嫌だ。
これは、わたしも含め、誰でもそう思うことだろう。
じゃあ、何が嫌なのか。
①流行りのものが買えない。
②人にバカにされたくない。
③周りの人たちよりも、下に見られるのが嫌。
④支払いの滞りで惨めな思いをしたくない。
⑤人に頭を下げたくない。
⑥やりたいことができない。
結局、「恥ずかしい」「世間体」がほとんどであって、「やりたいことができない」は、割と後の方に挙がるのだ。
つまり、
お金があったら、これが満たされると思っているので、結局はお金は、自分の世間体のためのモノとしか使えてない人間が、多いということになるだろう。
「お金がない」
という人間のほとんどは、今、生活できるほどのお金は、なんとか循環しているが、①〜⑥を埋めるほどではないと思い込んでる心境から、出る言葉だということが、だんだんわかってきた。
わたしも、お金は足りていない。
しかし、なんだかんだと生活はできているし、お金がないことで、命を取られてもいない。
お金が足りなくても、毎日笑っている。
笑えることを見つけることは、ものすごく得意なのだろう。
お金は足りない。
しかし、お金目当てに走ることも、未だにできない。
(それをしたところで、なんの笑いも生まれないからかもしれない。)
お金がない!
と言いながら、冷蔵庫の中は、パンパンになっている人間も、何人も見てきた。
冷蔵庫にいくら食材があっても、それを生かして調理する知恵がないから、またお金を使って新しい食材を買ってくる。
あなたに無いものは、お金ではなく、知恵の方だと、これまで、何人もの人に、簡単な即席レシピを伝えてきた。
「1時間で、ご飯・汁物・メイン・副菜2種を、作りましょう!」
と、その場でリアルタイムにレシピを考え、伝えて、ご本人が調理していくことも、何度もあった。
支払えないものは、頭を下げて、待ってもらうこともできる。
だけど、それすらしたくないから、周りを責め立て、イライラをばら撒く人間も、何人も見てきた。
それは、お金がないのではなく、素直さが全くないということだ。
債務整理や、自己破産などの、法律に守られる判断をした人間も、何人も見てきた。
法律に守られているとはいえ、弁護士からの接見が続くことで、なんだか取り調べを受けているような気持ちにもなる。準備する書類もあり、時間も手間もかかる。そして、費用も少なからずかかる。
実情、手続きの途中で、破談にしてしまうケースもたくさんある。
それは、お金がないからそうなったのではなく、本当の味方(仲間)がいなかったということだ。
債務整理や自己破産をすることを、当たり前に受け入れ、常に応援してくれる味方がいれば、乗り越えていけるのだ。
お金を稼ぐことも大事だが、
大切なのは、普段から、どこまで信頼関係を築けるか?ということに、まだまだ気付けない人間が多い。
先日、茜が、
「この財布は、お金が空っぽにならないんよ!」
と、話してくれた。
茜は、9月に修行先を変えた。
そのため、報酬の受け取り日が、かなり後ろ倒しになってしまった。
しかし、
お金が足りないのは、わたしの姿もずっと見ていたので、
「お金がなければ、知恵を使えばいいよね!」
と、笑っていた。
イライラすることもなく、とにかく、
「なんとかなる!」
と、前向きに過ごしていたある日、
いよいよ、財布の中が空っぽになりそう(ジュースが1本買えるかどうか)だった。
修行先で、
「すみません、お手洗いを貸してください。」
と、声をかけられたらしい。
その日は、近くの神社がお祭りだったようで、お神楽が奉納されていたらしく、その関係者の方だった。
茜は、
「どうぞどうぞ。あちらにありますから。」
と案内した。
用を済ませたその方が、
「どうも、ありがとうございました。これ、お礼です。受け取ってください。」
と、茜に1,000円を渡してきた。
茜は驚いて、
「いやいや、こんなの受け取れません!」
と言うと、
「いや、受け取ってください。お礼です。」
と、走って立ち去って行ったらしい。
茜は、すぐにわたしに連絡してきた。
わたしもその話を聞いて、驚いた。
その神社のお神楽は、ちょうど猿田彦が出てきた演目だったらしい。
お金がないからこそ、
気づけることは、たくさんある。
そこに、まだまだ気付けない人間が多い。
お金がないからこそ、有り難いこともあるのだ。
さて、
わたしもプロダクションの時代に、
法人化するか悩んだことがあった。
だけど、
わたしは自分の仕事(会社)を大きくしたいなどという、自分に向けた野望は特にないのだ。
結局、法人化は達成していないので、
「違う」
ということなのだろう。
最近になって、またいろいろと考える中で、自分の夢が出てきた(思い出してきた)。
それに伴い、株式会社にするのではなく、
一般社団法人を目指すのも悪くないかもしれないなと、少しずつ、具体的なビジョンが出てきつつある。
時間はかかるが、チャレンジするのも悪くないかもしれない。
とはいえ、
わたしには「普通」が当てはまらない。
わたしの周りの見えない存在が、大きな鍵を握っているので、流れに身を任せてみる。
『命。生きること。死ぬこと。』というタイトルで、ブログを書いていた。
初めて、「うまくまとまった!」と、思った瞬間、パッと消えてしまった。
(キャンセルボタンなどは押していない。)
そのブログを書きながら、ふと思ったことは、
「これを書いて、世に出したなら、そのあと、わたしはなにを書いていけば良いのだろう?」
ということ。
すべての根本的なことを書いているような気がして、その後に書くことが、すべて茶番のようになるのではないか?とすら思った。
・・
それが、正解だったのか、
世に出ることなく、消えてしまった。
消えてしまったら、たった今まで、なにをどう書いていたのかさえ、記憶が途切れ途切れになってしまって、もう一度、書き直すことすら不可能な状態に。
結局、またこうして、このブログを今までどおり、続けることになっている。
先日も、ある会話の中で、「お金がない」という話になった。
お金がないのは嫌だ。
これは、わたしも含め、誰でもそう思うことだろう。
じゃあ、何が嫌なのか。
①流行りのものが買えない。
②人にバカにされたくない。
③周りの人たちよりも、下に見られるのが嫌。
④支払いの滞りで惨めな思いをしたくない。
⑤人に頭を下げたくない。
⑥やりたいことができない。
結局、「恥ずかしい」「世間体」がほとんどであって、「やりたいことができない」は、割と後の方に挙がるのだ。
つまり、
お金があったら、これが満たされると思っているので、結局はお金は、自分の世間体のためのモノとしか使えてない人間が、多いということになるだろう。
「お金がない」
という人間のほとんどは、今、生活できるほどのお金は、なんとか循環しているが、①〜⑥を埋めるほどではないと思い込んでる心境から、出る言葉だということが、だんだんわかってきた。
わたしも、お金は足りていない。
しかし、なんだかんだと生活はできているし、お金がないことで、命を取られてもいない。
お金が足りなくても、毎日笑っている。
笑えることを見つけることは、ものすごく得意なのだろう。
お金は足りない。
しかし、お金目当てに走ることも、未だにできない。
(それをしたところで、なんの笑いも生まれないからかもしれない。)
お金がない!
と言いながら、冷蔵庫の中は、パンパンになっている人間も、何人も見てきた。
冷蔵庫にいくら食材があっても、それを生かして調理する知恵がないから、またお金を使って新しい食材を買ってくる。
あなたに無いものは、お金ではなく、知恵の方だと、これまで、何人もの人に、簡単な即席レシピを伝えてきた。
「1時間で、ご飯・汁物・メイン・副菜2種を、作りましょう!」
と、その場でリアルタイムにレシピを考え、伝えて、ご本人が調理していくことも、何度もあった。
支払えないものは、頭を下げて、待ってもらうこともできる。
だけど、それすらしたくないから、周りを責め立て、イライラをばら撒く人間も、何人も見てきた。
それは、お金がないのではなく、素直さが全くないということだ。
債務整理や、自己破産などの、法律に守られる判断をした人間も、何人も見てきた。
法律に守られているとはいえ、弁護士からの接見が続くことで、なんだか取り調べを受けているような気持ちにもなる。準備する書類もあり、時間も手間もかかる。そして、費用も少なからずかかる。
実情、手続きの途中で、破談にしてしまうケースもたくさんある。
それは、お金がないからそうなったのではなく、本当の味方(仲間)がいなかったということだ。
債務整理や自己破産をすることを、当たり前に受け入れ、常に応援してくれる味方がいれば、乗り越えていけるのだ。
お金を稼ぐことも大事だが、
大切なのは、普段から、どこまで信頼関係を築けるか?ということに、まだまだ気付けない人間が多い。
先日、茜が、
「この財布は、お金が空っぽにならないんよ!」
と、話してくれた。
茜は、9月に修行先を変えた。
そのため、報酬の受け取り日が、かなり後ろ倒しになってしまった。
しかし、
お金が足りないのは、わたしの姿もずっと見ていたので、
「お金がなければ、知恵を使えばいいよね!」
と、笑っていた。
イライラすることもなく、とにかく、
「なんとかなる!」
と、前向きに過ごしていたある日、
いよいよ、財布の中が空っぽになりそう(ジュースが1本買えるかどうか)だった。
修行先で、
「すみません、お手洗いを貸してください。」
と、声をかけられたらしい。
その日は、近くの神社がお祭りだったようで、お神楽が奉納されていたらしく、その関係者の方だった。
茜は、
「どうぞどうぞ。あちらにありますから。」
と案内した。
用を済ませたその方が、
「どうも、ありがとうございました。これ、お礼です。受け取ってください。」
と、茜に1,000円を渡してきた。
茜は驚いて、
「いやいや、こんなの受け取れません!」
と言うと、
「いや、受け取ってください。お礼です。」
と、走って立ち去って行ったらしい。
茜は、すぐにわたしに連絡してきた。
わたしもその話を聞いて、驚いた。
その神社のお神楽は、ちょうど猿田彦が出てきた演目だったらしい。
お金がないからこそ、
気づけることは、たくさんある。
そこに、まだまだ気付けない人間が多い。
お金がないからこそ、有り難いこともあるのだ。
さて、
わたしもプロダクションの時代に、
法人化するか悩んだことがあった。
だけど、
わたしは自分の仕事(会社)を大きくしたいなどという、自分に向けた野望は特にないのだ。
結局、法人化は達成していないので、
「違う」
ということなのだろう。
最近になって、またいろいろと考える中で、自分の夢が出てきた(思い出してきた)。
それに伴い、株式会社にするのではなく、
一般社団法人を目指すのも悪くないかもしれないなと、少しずつ、具体的なビジョンが出てきつつある。
時間はかかるが、チャレンジするのも悪くないかもしれない。
とはいえ、
わたしには「普通」が当てはまらない。
わたしの周りの見えない存在が、大きな鍵を握っているので、流れに身を任せてみる。