先日、大阪のY子から、LINEが来た。
「夢に、スサノオさんと、いくちゃんが出てきた。」
・・ほう。スサノオかぁ。Y子からスサノオの名前を聞くのは、これで3回目。
その夢は、すごくドラマチックで、
Y子が、スサノオの置き物があったのを見つけると、
場面が変わり、
スサノオがY子に、
「金のことは任せてある!
イノウエ(白狼?白狐?を指している)が襲ってこようものなら、私が追い払う!」
と言う。
向こうから、赤い目をしたイノウエ(白狼?白狐?)が2体襲って来る。
Y子は、わたしに
「逃げて!」
と叫ぶ。
わたしは、
「あいつらーっ!」
と、怒りをあらわにしているのがわかる。
わたしは、奥にかくまわれて、
そこには、「ここから先には行かれない」と結界のようなものがあると、Y子は感じた。
イノウエの1体が、スサノオをかわして、
その結界を突破する。
Y子が、振り向いたときには、
そのイノウエは、血を吹いて死んでいた。
Y子は、すぐに、それは、わたしのチカラが招いたものだと察する。
場面が切り替わり、
Y子が、
「いろんな本を持っていても、歴史あるものがたくさん写真に載っていても、すごいパワーのあるものはその場所に行かないと見れない。
そこに行かないと感じ取れない。」
と話す。
というような夢だったらしい。
要は、スサノオがわたしを護ってくれたことになる。
その白狼?白狐?も、スサノオに追い払われておけば良かったものを、余計なことをしたことによって、余計な結果を招いた。
スサノオかぁ。
2020年11月10日に、
ふらっと入った本屋で、わたしの目にバーンと入ってきたのが、
『ていうか、神さまってなに?』
という本だ。
「夢に、スサノオさんと、いくちゃんが出てきた。」
・・ほう。スサノオかぁ。Y子からスサノオの名前を聞くのは、これで3回目。
その夢は、すごくドラマチックで、
Y子が、スサノオの置き物があったのを見つけると、
場面が変わり、
スサノオがY子に、
「金のことは任せてある!
イノウエ(白狼?白狐?を指している)が襲ってこようものなら、私が追い払う!」
と言う。
向こうから、赤い目をしたイノウエ(白狼?白狐?)が2体襲って来る。
Y子は、わたしに
「逃げて!」
と叫ぶ。
わたしは、
「あいつらーっ!」
と、怒りをあらわにしているのがわかる。
わたしは、奥にかくまわれて、
そこには、「ここから先には行かれない」と結界のようなものがあると、Y子は感じた。
イノウエの1体が、スサノオをかわして、
その結界を突破する。
Y子が、振り向いたときには、
そのイノウエは、血を吹いて死んでいた。
Y子は、すぐに、それは、わたしのチカラが招いたものだと察する。
場面が切り替わり、
Y子が、
「いろんな本を持っていても、歴史あるものがたくさん写真に載っていても、すごいパワーのあるものはその場所に行かないと見れない。
そこに行かないと感じ取れない。」
と話す。
というような夢だったらしい。
要は、スサノオがわたしを護ってくれたことになる。
その白狼?白狐?も、スサノオに追い払われておけば良かったものを、余計なことをしたことによって、余計な結果を招いた。
スサノオかぁ。
2020年11月10日に、
ふらっと入った本屋で、わたしの目にバーンと入ってきたのが、
『ていうか、神さまってなに?』
という本だ。
著書の荒川裕二さんの前に、
本当にスサノオが現れたという実話で、
元々は、アメブロから大ヒットした内容だ。
わたしも、この時、初めてこの本を手に取り、
パラパラと中を見た時に、
「本当に、そのまんまやないかー!」
と、とても感動したのを覚えている。
すぐに、購入して、いろんな人に勧めた本だ。
(わたしの難しい話よりも、実に人間にわかりやすい言葉に要約されていて、それもまた感動した。)
わたしは、
神社仏閣にあまり興味がない。
というのも、人間界における神や仏というものは、元々、人間を指す。
(神話に登場する神々も、ほとんどが実在した人間を表している。)
人間は、人間なのだ。
わたしの言う神(わたしが知っている神)は、人間ではないので、その時点で、存在する場所?レベル?が違う。
と、なれば、人間ともなかなか理解し合えないのも仕方ないのも当然。
そんな中で、わたしはそれでも人間を信じ、人間に伝えようとここに存在するのだが、そのためには、人間との交流、茜のような存在にも助けられながら、理解していこうと今に至る。
そんな中での、スサノオの登場。
そういえば、いろんな場所でスサノオがアピールしてきていた。
あかりが住んでいる自宅の最寄りの神社も、スサノオが祀られていた。
2021年に、茜と初めて甲子園球場に行った時に、駐車場から歩いていると、小さな神社が表れ、そこにもスサノオが祀られていた。
もっと遡れば、仕事で広島に行く時に、友だちを誘って行った。
車で行ったのだが、帰りに、ふらっと神社に立ち寄った。
場所も何もわからないが、存在感のあるその神社も、スサノオが祀られていた。
おそらく、ほかにもスサノオのアピールはあったように思う。
それでもわたしは振り向きもせずにいたら、ついに、Y子を動かしてきたようだ。
本当にスサノオが現れたという実話で、
元々は、アメブロから大ヒットした内容だ。
わたしも、この時、初めてこの本を手に取り、
パラパラと中を見た時に、
「本当に、そのまんまやないかー!」
と、とても感動したのを覚えている。
すぐに、購入して、いろんな人に勧めた本だ。
(わたしの難しい話よりも、実に人間にわかりやすい言葉に要約されていて、それもまた感動した。)
わたしは、
神社仏閣にあまり興味がない。
というのも、人間界における神や仏というものは、元々、人間を指す。
(神話に登場する神々も、ほとんどが実在した人間を表している。)
人間は、人間なのだ。
わたしの言う神(わたしが知っている神)は、人間ではないので、その時点で、存在する場所?レベル?が違う。
と、なれば、人間ともなかなか理解し合えないのも仕方ないのも当然。
そんな中で、わたしはそれでも人間を信じ、人間に伝えようとここに存在するのだが、そのためには、人間との交流、茜のような存在にも助けられながら、理解していこうと今に至る。
そんな中での、スサノオの登場。
そういえば、いろんな場所でスサノオがアピールしてきていた。
あかりが住んでいる自宅の最寄りの神社も、スサノオが祀られていた。
2021年に、茜と初めて甲子園球場に行った時に、駐車場から歩いていると、小さな神社が表れ、そこにもスサノオが祀られていた。
もっと遡れば、仕事で広島に行く時に、友だちを誘って行った。
車で行ったのだが、帰りに、ふらっと神社に立ち寄った。
場所も何もわからないが、存在感のあるその神社も、スサノオが祀られていた。
おそらく、ほかにもスサノオのアピールはあったように思う。
それでもわたしは振り向きもせずにいたら、ついに、Y子を動かしてきたようだ。
そして、猿田彦。
これは、2022年に、茜が急に猿田彦に魅了されだす。
わたしは相変わらず、茜を冷たい目で見ていたように思うが、猿田彦はいったい何者か?という話に、茜と何度もするが、特に興味も持たなかった。
そのうち、2023年に、茜が絵を描き始める。
いろんな絵を描く中で、猿田彦を描いたのだ。
これは、2022年に、茜が急に猿田彦に魅了されだす。
わたしは相変わらず、茜を冷たい目で見ていたように思うが、猿田彦はいったい何者か?という話に、茜と何度もするが、特に興味も持たなかった。
そのうち、2023年に、茜が絵を描き始める。
いろんな絵を描く中で、猿田彦を描いたのだ。
絵は何枚もある中で、
この絵は、サロンに飾ってある。
(原画販売中。)
特に、猿田彦に興味もなかったが、
が!
つい、先日のこと。
不意に、お神楽の動画が、携帯にあがってきた。
わたしは、地元の『深耶馬 岩戸神楽』のお神楽が子どもの頃から大好きだった。
その中でも、大好きな定番の演目があるのだが、その演目の内容を知りたいと思い、すぐに調べた。
わたしが子どもの頃から、その演目を見ていた解釈では、
神が降りてきて、舞いながらどこかに行こうとしていると、目の前に鬼が現れた。
鬼もまた、神の存在に気づき、お互い牽制し合う。
そして、お互いに戦おうとするが、神が持つ鈴の音が結界になり、鬼は近づけない。
互角のまま戦ったのちに、お互いに口を開き、何か口上する。
そこで、鬼は改心し、神と仲良くなる。(肩を組んでスキップするような場面もある)
2人でどこかに向かう途中、観客の、特に赤ちゃんを、鬼が抱っこしてグルグルと回る。これが健康祈願とされ、いちばんの見せ所。
ギャン泣きする赤ちゃんを、次々に抱っこするのも、このお神楽の見せ所だ。
鬼はステージから降りて、走って子どもを追いかけることもあり、会場は大盛り上がり。
そうこうしていると、体格の大きな大人が、他の人から差し出される。
鬼は、「えっ・・!」という仕草を見せて、また会場は沸く。
鬼が、抱き抱えようと試みるが、うまく行かない。
すると、その体格の大きな大人の方が鬼を抱き抱えて、ステージでグルグル回る。
会場は、笑と拍手で最骨頂だ。
そして、観客との時間を終え、さらに次の場面に進む。神と鬼は、どこかの行き先に着く。
それを喜び、神は、鬼の肩に飛び乗って(本当に飛び乗るのだ)神を肩車して、グルグルと回る。
というもので、非常にダイナミックでドラマチックな演目で、わたしは大好きだ。
で、
調べた結果、わたしが鬼だと思っていたものは、実は、猿田彦を表していることがわかった。
『駈仙(みさき)神楽』
『式駈仙(しきみさき)神楽』
『御先(みさき)神楽』
などと言う演目になるらしい。
この『駈仙』は、猿田彦を表すという記述もあった。
つまり、
神が、どこかへ向かうために、道案内役の猿田彦が表れたが、お互い顔を知らない。
神は、猿田彦の形相から鬼だと勘違いし、警戒することから始まる。
のちの、口上で、鬼ではなく猿田彦だとわかると、2人は仲良く目的地まで向かう。
というような内容らしい。
わたしは、赤ちゃん頃から、この演目で鬼に抱っこされて泣いたことがない。
物心ついたあとも、鬼に抱っこされたくて、自ら向かって行ったほど珍しい子どもだった。
・・
わたしは、この話が鬼ではないことを知っていたのか?
いろいろ調べてみると、
出雲の言い伝えでは、
スサノオは、秦の国から来た人間を、のちに表しているらしい。
猿田彦は、インドのガネーシャを日本版にしたものらしい。
とはいえ、何が本当かなど、誰もわからない。
以前、高千穂に行った時に、岩戸神社の神職さんのお話を聞く機会があり、そこでも、
「神話の神は、ほとんどが人間で、それが神格化されたもの。神話の内容も、本当のことと脚色されたことが合わさってできている。」
と、話してくれた。
(わたしも心の中で、「その通り!」と叫んだ。笑)
何が本当か?
なんていうのは、どうでもいいことなのだ。
そんなことよりも、
もうすでに、人間が、スサノオも猿田彦も、祀り崇め、祈ってきている。
人間の祈りのエネルギーは、ものすごい。
そのエネルギーで、スサノオも猿田彦も、目には見えないが、すでに存在するのだ。
わたしが人間界で過ごすには、
人間のことをよく知るスサノオや、猿田彦にも、チカラを貸してもらわないといけないのかもしれない。
わたしと人間との間に、
もうワンクッション、必要だということに、やっと気付かされたようだ。
この絵は、サロンに飾ってある。
(原画販売中。)
特に、猿田彦に興味もなかったが、
が!
つい、先日のこと。
不意に、お神楽の動画が、携帯にあがってきた。
わたしは、地元の『深耶馬 岩戸神楽』のお神楽が子どもの頃から大好きだった。
その中でも、大好きな定番の演目があるのだが、その演目の内容を知りたいと思い、すぐに調べた。
わたしが子どもの頃から、その演目を見ていた解釈では、
神が降りてきて、舞いながらどこかに行こうとしていると、目の前に鬼が現れた。
鬼もまた、神の存在に気づき、お互い牽制し合う。
そして、お互いに戦おうとするが、神が持つ鈴の音が結界になり、鬼は近づけない。
互角のまま戦ったのちに、お互いに口を開き、何か口上する。
そこで、鬼は改心し、神と仲良くなる。(肩を組んでスキップするような場面もある)
2人でどこかに向かう途中、観客の、特に赤ちゃんを、鬼が抱っこしてグルグルと回る。これが健康祈願とされ、いちばんの見せ所。
ギャン泣きする赤ちゃんを、次々に抱っこするのも、このお神楽の見せ所だ。
鬼はステージから降りて、走って子どもを追いかけることもあり、会場は大盛り上がり。
そうこうしていると、体格の大きな大人が、他の人から差し出される。
鬼は、「えっ・・!」という仕草を見せて、また会場は沸く。
鬼が、抱き抱えようと試みるが、うまく行かない。
すると、その体格の大きな大人の方が鬼を抱き抱えて、ステージでグルグル回る。
会場は、笑と拍手で最骨頂だ。
そして、観客との時間を終え、さらに次の場面に進む。神と鬼は、どこかの行き先に着く。
それを喜び、神は、鬼の肩に飛び乗って(本当に飛び乗るのだ)神を肩車して、グルグルと回る。
というもので、非常にダイナミックでドラマチックな演目で、わたしは大好きだ。
で、
調べた結果、わたしが鬼だと思っていたものは、実は、猿田彦を表していることがわかった。
『駈仙(みさき)神楽』
『式駈仙(しきみさき)神楽』
『御先(みさき)神楽』
などと言う演目になるらしい。
この『駈仙』は、猿田彦を表すという記述もあった。
つまり、
神が、どこかへ向かうために、道案内役の猿田彦が表れたが、お互い顔を知らない。
神は、猿田彦の形相から鬼だと勘違いし、警戒することから始まる。
のちの、口上で、鬼ではなく猿田彦だとわかると、2人は仲良く目的地まで向かう。
というような内容らしい。
わたしは、赤ちゃん頃から、この演目で鬼に抱っこされて泣いたことがない。
物心ついたあとも、鬼に抱っこされたくて、自ら向かって行ったほど珍しい子どもだった。
・・
わたしは、この話が鬼ではないことを知っていたのか?
いろいろ調べてみると、
出雲の言い伝えでは、
スサノオは、秦の国から来た人間を、のちに表しているらしい。
猿田彦は、インドのガネーシャを日本版にしたものらしい。
とはいえ、何が本当かなど、誰もわからない。
以前、高千穂に行った時に、岩戸神社の神職さんのお話を聞く機会があり、そこでも、
「神話の神は、ほとんどが人間で、それが神格化されたもの。神話の内容も、本当のことと脚色されたことが合わさってできている。」
と、話してくれた。
(わたしも心の中で、「その通り!」と叫んだ。笑)
何が本当か?
なんていうのは、どうでもいいことなのだ。
そんなことよりも、
もうすでに、人間が、スサノオも猿田彦も、祀り崇め、祈ってきている。
人間の祈りのエネルギーは、ものすごい。
そのエネルギーで、スサノオも猿田彦も、目には見えないが、すでに存在するのだ。
わたしが人間界で過ごすには、
人間のことをよく知るスサノオや、猿田彦にも、チカラを貸してもらわないといけないのかもしれない。
わたしと人間との間に、
もうワンクッション、必要だということに、やっと気付かされたようだ。