前日、約1年ぶりに、aちゃんがサロンに来た。
わたしが扱っている豆岳珈琲のダンクコーヒーを、追加購入したいとのこと。
aちゃんとは、以前、みゆきちゃんと同じボランティア活動で一緒になって、それ以来、親交が続いている。
コーヒーの追加購入でも、久しぶりだし会話ははずむ。
わたしのこの1年間の近況で、わたしの気づきを交えて話すのだが、その一つ一つに、彼女も納得し、共感をする。
わたしのブログや、Instagramの投稿も、チェックしてくれていることも多く、その話でも盛り上がった。
そして、aちゃんが、
「いくちゃん、もっと発信して、本とかも書いて欲しい!」
と言ってくれた。
同じようなことは、ずいぶん前から、いろんな人に言ってもらっている。
そして、
2018年には、出版社からも
「本を出しませんか?」
と、いきなり話を持ちかけられたこともあった。
その時のわたしは、
「なんの本を書くの?」
と、イメージすら湧かなかった。
そのときには、【2つのストーリー】も書いていたが、本にするには、内容が足りない気もした。
そして、
わたしの中にあるのは、
「わたしが話していることは、この世でわたしが初めて話していることではなくて、いろんな人が、それこそ本にしたり、発信したり、いろんな場所で、すでに発信していること。」
というものだ。
もちろん、わたしは、
自分の経験したことと、実際に心(魂)を視たことの結果ではあるが、
その結果は、いろんな人の大抵の研究結果と、大きく掛け離れてはいないと思っている。
人間の心は、時代の移り変わりとは反して、そうそう大きくは変わっていない。
人間の魂が求めるものは、そこまで多岐にもわたらずに、(多岐にわたるのはツールの部分)いつの時代も、目指すものは、そんなに変わっていないのだ。
だから、わたしが発信していることは、いつも誰かの二番煎じだと思っている。
その話を、aちゃんに伝えると、
「んー。だけど、私は、いくちゃんの話がストンと入ってくるんだけどな。」
と、aちゃんは言った。
以前にも、別の方に、
「そりゃ、いろんな人が似たようなことを発信しているかもしれないよ?
だけど、私はさ、その人たちの発信に縁がないんだと思うのよ。
だから、いくえさんから聞かないと、一生、知らないままのことがたくさんあると思うんだよね。」
と、言われたことがある。
また、同じことを言われたなぁ。と思いながら、
「二番煎じだと思っている」のは、わたしだけなのかもしれない。
と、捉え方が変わっていくのも感じた。
二番煎じだから何なのか?
とも思いながら、
わたし自身に、貪欲さがなく、冷静を通り過ぎて冷酷な部分が、何か邪魔をしているだけなのか。
昔の歌を、誰かがカバーして発売することを、
二番煎じだと評価することはない。
昔のクラシックの名曲を、今のピアニストが弾いて発売することを、二番煎じだと評価することはない。
・・・
たぶん、わたしの中では、
二番煎じだと、自分をバカにしているわけではなく、
「特別なことはしていない」
という基本的な感覚を、謙遜して?表しているのかもしれない。(謙遜というか、わかりやすくというか。)
二番煎じは変わらないにしろ、
わたしの発信を待ち望んでいる人が存在している事実は、本当にありがたい。
本の出版。
本気で望んでみようと思う。
わたしが扱っている豆岳珈琲のダンクコーヒーを、追加購入したいとのこと。
aちゃんとは、以前、みゆきちゃんと同じボランティア活動で一緒になって、それ以来、親交が続いている。
コーヒーの追加購入でも、久しぶりだし会話ははずむ。
わたしのこの1年間の近況で、わたしの気づきを交えて話すのだが、その一つ一つに、彼女も納得し、共感をする。
わたしのブログや、Instagramの投稿も、チェックしてくれていることも多く、その話でも盛り上がった。
そして、aちゃんが、
「いくちゃん、もっと発信して、本とかも書いて欲しい!」
と言ってくれた。
同じようなことは、ずいぶん前から、いろんな人に言ってもらっている。
そして、
2018年には、出版社からも
「本を出しませんか?」
と、いきなり話を持ちかけられたこともあった。
その時のわたしは、
「なんの本を書くの?」
と、イメージすら湧かなかった。
そのときには、【2つのストーリー】も書いていたが、本にするには、内容が足りない気もした。
そして、
わたしの中にあるのは、
「わたしが話していることは、この世でわたしが初めて話していることではなくて、いろんな人が、それこそ本にしたり、発信したり、いろんな場所で、すでに発信していること。」
というものだ。
もちろん、わたしは、
自分の経験したことと、実際に心(魂)を視たことの結果ではあるが、
その結果は、いろんな人の大抵の研究結果と、大きく掛け離れてはいないと思っている。
人間の心は、時代の移り変わりとは反して、そうそう大きくは変わっていない。
人間の魂が求めるものは、そこまで多岐にもわたらずに、(多岐にわたるのはツールの部分)いつの時代も、目指すものは、そんなに変わっていないのだ。
だから、わたしが発信していることは、いつも誰かの二番煎じだと思っている。
その話を、aちゃんに伝えると、
「んー。だけど、私は、いくちゃんの話がストンと入ってくるんだけどな。」
と、aちゃんは言った。
以前にも、別の方に、
「そりゃ、いろんな人が似たようなことを発信しているかもしれないよ?
だけど、私はさ、その人たちの発信に縁がないんだと思うのよ。
だから、いくえさんから聞かないと、一生、知らないままのことがたくさんあると思うんだよね。」
と、言われたことがある。
また、同じことを言われたなぁ。と思いながら、
「二番煎じだと思っている」のは、わたしだけなのかもしれない。
と、捉え方が変わっていくのも感じた。
二番煎じだから何なのか?
とも思いながら、
わたし自身に、貪欲さがなく、冷静を通り過ぎて冷酷な部分が、何か邪魔をしているだけなのか。
昔の歌を、誰かがカバーして発売することを、
二番煎じだと評価することはない。
昔のクラシックの名曲を、今のピアニストが弾いて発売することを、二番煎じだと評価することはない。
・・・
たぶん、わたしの中では、
二番煎じだと、自分をバカにしているわけではなく、
「特別なことはしていない」
という基本的な感覚を、謙遜して?表しているのかもしれない。(謙遜というか、わかりやすくというか。)
二番煎じは変わらないにしろ、
わたしの発信を待ち望んでいる人が存在している事実は、本当にありがたい。
本の出版。
本気で望んでみようと思う。