人間は、目に見えるもの(こと)に『依存』する。
その理由は、早く『安心』したいからだ。
そして、それが『幸せ』だと思い込んでいる。
それなのに、どれだけ依存しても、自分は幸せだとは思っていない人間ばかりだ。
集団でいれば、決まりができる。
条例や法律もそうだ。
すべて、人間が決めたこと。
しかし、どれだけ決まりを作っても、人間が幸せになることはない。
〈決まり=幸せ〉ではないからだ。
決まりは、決まりでしかない。
そこに、人間の『心(魂)』が乗っかっているかに『賭けられている』のだが、そこに気づいていない。
茜が、わたしのところに来た当初は、裏切りは当たり前だった。
わたしに対しても、周りに対しても。
「裏切り」とは、目に見える決まりを破るだけでなく、目には見えない『信頼』までを失う。
つまり、目に見えない『信頼』が何なのかを知らなければ、「裏切り」の度合いは、変わってくるということだ。
ある日、茜が、車にあったコーヒーが入っていたストロー付きのプラスチックの容器を、自販機の横にあるビン・カン・ペットボトル用のゴミ箱に捨てようとしていたところを、わたしに見つかったことがある。
40にもなろうという人間の、クズさには呆れ返るほどだったが、わたしはすぐさま詰め寄った。
ここで、わたしが正論を言うが、茜は絶対に受け入れない。
自分の空想をでっちあげ、それを正当化しようとする。
それも、1時間でも2時間でも、少しずつ内容を変えながら、どうにかこうにか、『自分は悪くない!』を永遠に繰り返す。
こうなれば、わたしからすれば、獣と同じなのだ。
言葉が通じない。
人間界では受け入れられない言い分をぶつけてくるのだから、それは、獣が獣の立場で人間を襲うのと同じ状態。
それを、人間は人間界の立場でやむ無く銃殺する。
だから、わたしは過去の茜を、ドブネズミと称してきた。
しかし、当時の茜本人には、そのレベルがわからない。
茜の頭の中には、
「自分は悪者じゃない!」
という思いが、一気に充満する。
わたしが何を言っても、
「自分は責められている!自分が悪者になっている!どうにかしなければ!」
しか、頭の中にはない。
そもそも、
自分が、ゴミ捨てに対しても当たり前の「心」を持ち、それに従って行動すれば良いものを、
・自分の車さえ綺麗になれば良い
・バレなければ良い
の、上っ面な思考のみで行動したからこそ。
100%の原因は、茜にあるのだ。
そして、
茜を、ここまでドブネズミに変えてしまった原因は何か?
というところまで、わたしは、たったこのゴミ捨てひとつにしても、追いかけていく。
(普通なら、見て見ぬふりすることもできるだろう。)
なぜなら、『一事が万事』だからだ。
前回のブログ《孤独とは自由。》の中で紹介した、
1本目のYouTube動画の中で、「先祖供養」や「墓参り」の話が出てくる。
そして、それをすれば、運気が上がることに気づくのだが、師匠は、
「それがどれだけ無駄なことかが、わかるまで教えてあげる。」
と言う、話がある。
わたしも、この師匠と全く同じことを、伝えてきた。もちろん、茜にも。
(あの動画を観たKさんは、まるで、茜とわたしのやり取りと同じようだったと、言っていた。)
茜は、わたしのところに来る前は、
神社参拝や、お墓参りなど、足しげく行っていた。
わたしよりも遥かに多く行っていた。
それを誇らしげにわたしに伝えたとき、
「そんなことやって、何になるの?そんなことやったって、意味ねーんだよ。バーカ。」
と、返している。
わたしの心の中では、
神社参拝?墓参り?は?それで?
ゴミ捨ては、テキトーにやって、そのゴミを処理する業者の心を傷つけて平気?
人を裏切って平気?
お前の先祖は、よっぽどクズな先祖だったんだろうな。お前が神と崇めるものは、よっぽどクズなんだろうよ。
と、茜にも、茜の周りの奴らにもぶつけている。
(クズには、クズが集まる。それは見えないものでも同じこと。)
神社参拝や墓参りを、何十年と続けても、
肝心な本人の心が、クズまみれなら、何の意味もない。時間の無駄だ。
そもそも、
なんのために、神社参拝に行っているのか。
なんのために、墓参りに行っているのか。
神側の立場なら、
自分の拠点が、人間に見えるカタチとなってあるのは、嬉しい事だ。
(必ずしも、そこに神がいるわけではないが。)
死者側の立場なら、
お墓があることで、自分のことを忘れずにいてもらえることは、嬉しい事だ。
(もちろん、そこにずっと魂がいるわけではない。)
ならば、人間は、何のために?
神の立場、死者の立場を、汲む意外に何があるのか?
ドブネズミみたいな心で、何しに神社参拝や墓参りに行くのか?
ずっと、疑問だった。
しかし、あのYouTube動画の中で、
「人が、目に見えるものにすがるのは、
《人間の弱さ》だ。」
と言う場面があった。
唯一、わたしは、その場面だけ、
「そうなのか・・」
と思った。
人間=弱い
ということが、いまいちピンと来ないので、
「弱さ」という一言で、片付けられてしまうことに、
衝撃だった。
自分の心の状態は棚に上げて、
目に見えるものにすがって他力本願なのも、
「弱さ」なのか。
となれば、
わたしが、「バカ」と称しているものも、「弱さ」の代替なのか。
人間は、自分の「弱さ」を慰めてほしくて、神社に向かうのか?
弱いのが悪いわけではない。
だから、わたしは常に伴走者なのだ。
その理由は、早く『安心』したいからだ。
そして、それが『幸せ』だと思い込んでいる。
それなのに、どれだけ依存しても、自分は幸せだとは思っていない人間ばかりだ。
集団でいれば、決まりができる。
条例や法律もそうだ。
すべて、人間が決めたこと。
しかし、どれだけ決まりを作っても、人間が幸せになることはない。
〈決まり=幸せ〉ではないからだ。
決まりは、決まりでしかない。
そこに、人間の『心(魂)』が乗っかっているかに『賭けられている』のだが、そこに気づいていない。
茜が、わたしのところに来た当初は、裏切りは当たり前だった。
わたしに対しても、周りに対しても。
「裏切り」とは、目に見える決まりを破るだけでなく、目には見えない『信頼』までを失う。
つまり、目に見えない『信頼』が何なのかを知らなければ、「裏切り」の度合いは、変わってくるということだ。
ある日、茜が、車にあったコーヒーが入っていたストロー付きのプラスチックの容器を、自販機の横にあるビン・カン・ペットボトル用のゴミ箱に捨てようとしていたところを、わたしに見つかったことがある。
40にもなろうという人間の、クズさには呆れ返るほどだったが、わたしはすぐさま詰め寄った。
ここで、わたしが正論を言うが、茜は絶対に受け入れない。
自分の空想をでっちあげ、それを正当化しようとする。
それも、1時間でも2時間でも、少しずつ内容を変えながら、どうにかこうにか、『自分は悪くない!』を永遠に繰り返す。
こうなれば、わたしからすれば、獣と同じなのだ。
言葉が通じない。
人間界では受け入れられない言い分をぶつけてくるのだから、それは、獣が獣の立場で人間を襲うのと同じ状態。
それを、人間は人間界の立場でやむ無く銃殺する。
だから、わたしは過去の茜を、ドブネズミと称してきた。
しかし、当時の茜本人には、そのレベルがわからない。
茜の頭の中には、
「自分は悪者じゃない!」
という思いが、一気に充満する。
わたしが何を言っても、
「自分は責められている!自分が悪者になっている!どうにかしなければ!」
しか、頭の中にはない。
そもそも、
自分が、ゴミ捨てに対しても当たり前の「心」を持ち、それに従って行動すれば良いものを、
・自分の車さえ綺麗になれば良い
・バレなければ良い
の、上っ面な思考のみで行動したからこそ。
100%の原因は、茜にあるのだ。
そして、
茜を、ここまでドブネズミに変えてしまった原因は何か?
というところまで、わたしは、たったこのゴミ捨てひとつにしても、追いかけていく。
(普通なら、見て見ぬふりすることもできるだろう。)
なぜなら、『一事が万事』だからだ。
前回のブログ《孤独とは自由。》の中で紹介した、
1本目のYouTube動画の中で、「先祖供養」や「墓参り」の話が出てくる。
そして、それをすれば、運気が上がることに気づくのだが、師匠は、
「それがどれだけ無駄なことかが、わかるまで教えてあげる。」
と言う、話がある。
わたしも、この師匠と全く同じことを、伝えてきた。もちろん、茜にも。
(あの動画を観たKさんは、まるで、茜とわたしのやり取りと同じようだったと、言っていた。)
茜は、わたしのところに来る前は、
神社参拝や、お墓参りなど、足しげく行っていた。
わたしよりも遥かに多く行っていた。
それを誇らしげにわたしに伝えたとき、
「そんなことやって、何になるの?そんなことやったって、意味ねーんだよ。バーカ。」
と、返している。
わたしの心の中では、
神社参拝?墓参り?は?それで?
ゴミ捨ては、テキトーにやって、そのゴミを処理する業者の心を傷つけて平気?
人を裏切って平気?
お前の先祖は、よっぽどクズな先祖だったんだろうな。お前が神と崇めるものは、よっぽどクズなんだろうよ。
と、茜にも、茜の周りの奴らにもぶつけている。
(クズには、クズが集まる。それは見えないものでも同じこと。)
神社参拝や墓参りを、何十年と続けても、
肝心な本人の心が、クズまみれなら、何の意味もない。時間の無駄だ。
そもそも、
なんのために、神社参拝に行っているのか。
なんのために、墓参りに行っているのか。
神側の立場なら、
自分の拠点が、人間に見えるカタチとなってあるのは、嬉しい事だ。
(必ずしも、そこに神がいるわけではないが。)
死者側の立場なら、
お墓があることで、自分のことを忘れずにいてもらえることは、嬉しい事だ。
(もちろん、そこにずっと魂がいるわけではない。)
ならば、人間は、何のために?
神の立場、死者の立場を、汲む意外に何があるのか?
ドブネズミみたいな心で、何しに神社参拝や墓参りに行くのか?
ずっと、疑問だった。
しかし、あのYouTube動画の中で、
「人が、目に見えるものにすがるのは、
《人間の弱さ》だ。」
と言う場面があった。
唯一、わたしは、その場面だけ、
「そうなのか・・」
と思った。
人間=弱い
ということが、いまいちピンと来ないので、
「弱さ」という一言で、片付けられてしまうことに、
衝撃だった。
自分の心の状態は棚に上げて、
目に見えるものにすがって他力本願なのも、
「弱さ」なのか。
となれば、
わたしが、「バカ」と称しているものも、「弱さ」の代替なのか。
人間は、自分の「弱さ」を慰めてほしくて、神社に向かうのか?
弱いのが悪いわけではない。
しかし、「弱い」ことを盾にして、諦めるのは違う。
弱かろうが、何だろうが、
自分と向き合うしかない。
死んでからでは遅いんだということも、
わたしが紹介した動画は、伝えてくれている。
わたしが、あの時の茜と闘ったのは、
茜の肉体ではなく、茜の心から、ドブネズミの毛皮を剥がすためだった。
わたしが無理矢理剥がそうとしても、意味がない。
茜が理解して、自分で剥いでいかなければ、またすぐに、毛皮を被る(ラクな方に逃げる)のだ。
毛皮を剥いだあと、どうなるのか。
知らない世界は、誰だって怖いもの。
だから、わたしは常に伴走者なのだ。