孤独とは自由。


孤独とは、自由。

人が集まれば、決まりができる。
決まりができる度に、自由はなくなる。

そんな簡単なことすら
わからなくなっている。


そもそも、
孤独=悪いこと
だと思い込んでいる。

「友だち100人できるかな」
友だちがたくさんいること=良いこと
だと思い込んでいる。

そこに「なぜか?」と尋ねると
ほとんどの人間が、まともに答えられない。

「なぜ?」という疑問も持てないこと、
答えられないことを、さらに子どもにも
植え付けている。
そして、友だちがいても、家族がいても
「自分は孤独だ」
と、劣等感まで生む始末。

一体、なんなのか。

結局、人間は、自分の人生すら、誰かのせいだ。
それで、幸せになりたい!だとか口先ばかりで、
本気で、幸せになりたいなんて思っていない。
なぜなら、100%人のせいで平気だから。


今日、この動画を見る機会に恵まれた。
↓↓
https://youtu.be/MCNQqhydyT8


最初から最後まで、きちんと観てほしい。


(ここからは、動画を観た人に話す内容になっている。)

この通りなのだ。

「愛してる」と自分で発した言葉は、
自分の耳にも聞こえる。
だから、自分にも言われたような気持ちになる。
(気持ちの良い言葉を発すると、本当に気持ちが良くなるのは、そのため。)


ただ、『感謝』というのは、ちょっと違う。 

「ありがとう」と発するのは、悪いことではない。
しかし、それでは、『感謝が足りない』のも、事実なのだ。

『感謝』とは、エネルギーと同じで、湧いてくるものだとわたしは思っている。

だから、例え、言葉がなくても、『感じ取ることができる』のだ。
(バカほど、言葉に執着する。だから、大抵、不満がある。)


そして、この動画も観てほしい。
↓↓↓
https://youtu.be/4z2VqjrpVIk

(これには、後半もあるので、ぜひ後半の動画にも進んでほしい。)


この臨死体験の話も、話はわかるし、よく理解できる。
(わたしには村はつくれないが。笑)

生き返るのに、カラダのカタチになったら、肉体に入るという話も、わたしは「そうそう!」と思いながら観ていた。


1本目の動画では、
《子どもの命を賭けられて、初めて、『祈り』の意味を知らされた。》
という、話がある。

『茜』は、わたしにぶん殴られて、お互いに殺し合う寸前までやりあって、
《自分の命を賭けられて『生きること』と『愛』を知っていった。》
のだ。実際に。


2本目の動画では、
《臨死体験の中で、30年の人生を振り返った。》
という、話がある。

『茜』は、
《生きながらにして、3年で30年の人生を振り返った。》
のだ。


・・・
やっぱり、人間は、死にかけないと、気づかないということだろう。

死ぬ時に、やっと自分と向き合うことができる。
いや、それしかできないのだ。
そして、いろんな思いを馳せながら、また来世に持ち越すのだろう。


しかし、
わたしと関わると、

生きながらにして、自分と向き合わなければならなくなる。
生きながら、自分と向き合うことは、とてもキツい。とてもしんどい。

だから、わたしと一緒にいると、死ぬほどしんどいのだろう。

その代わり、今世においての伸び代は、最大限活かすことができる。

(どちらが良いかは、お任せする。)


自分の人生なんて、
当たり前に孤独だ。だから、自由。

しかし、
決して独りで生きているわけではなく、周りの人から、現象から、いろんなヒントを得て、自分の人生に活かしている。

だけど、
自分の人生のレールには、
自分しかいないのだ。

孤独だろうと、どうでもいいこと。
孤独は闇でもなく、現象だけのこと。

孤独であっても、わたしに話しかけることはできる。
孤独であっても、わたしはそれを笑うこともなければ、指摘することもない。

すべて、当たり前なのだ。

孤独を、勝手に悪者にしてるのは、
あなた自身。


当たり前に孤独があり、
その孤独の先に、自由がある。

それだけのこと。