『嫌い』への共感。


『あかり』や『茜』の話もさることながら、これまでわたしは、視心カウンセリングを通して、心のコンサルティングを施してきた。


19歳の時に、『あかり』に出会い、わたしの、心のコンサルを施す人生がはじまる。

当初はそれを『仕事』の認識もなく、わたしにできる日常として、やってきた。


しかし、40歳の時に、これが役に立っているのかわからなくなった。
せめて、これをビジネスできたら、まだ良かったのかもしれないが、それもできなかった。
(心のコンサルティングを本当のビジネスにするなら、年間3億はくだらない。逆に、3億積まれても、わたしのようなコンサルができる人間は皆無だと思っている。)

もう、辞めようと思い、辞める方向にシフトチェンジしようとしていた矢先に『茜』に出会い、結局、辞められず、今に至る。


そう、辞めさせられなかった。辞めてはいけなかった。
辞めて、何をするの?
他のことをしていても、きっと、誰かの心のコンサルをしているに違いない。


巷で、いろんな霊能者が、
「本物は、お金を取らない。」
と、言うが、正しくは、

「お金を取れない」

のだ。その能力の対価を、お金で解決させてはもらえないということ。

対価として、年間3億はするこのコンサルを、わたし以外の人間がやろうと思ったら、お金の前に、高確率で死んでしまうだろう。
それだけのことを、わたしは、『日常』として施す。もはや、それをお金で解決できるようなことではないのだ。

「命」の価値を、お金で表せるか?
と、言われたら、難しいだろう。

人間、誰もが持っている当たり前の「命」。
『日常』にある「命」。
だけど、お金では、その価値を表せない。

わたしのコンサルも、それと同じことが言える。


わたしが提示する「料金」は、
わたしの価値でも、わたしへの対価でもない。

あなたが覚悟を表す、最低限の金額。

わたしのところに来るには、勇気も覚悟もいるだろう。
そして、命を使って、わたしのカウンセリングを受ける。
聞き流す程度なら、わざわざ来る必要はない。
(お金を支払いたくないと思うのも同じ。)

すべて、あなた自身の選択。



さて、今日の本題。《「嫌い」への、共感。》

これは、親子でも夫婦でも、人間関係の中で、特に信頼関係を深めるには、『嫌い』への共感は必至。


人には、いろんな『嫌い』がある。あっていい。
それを、受け入れることができるか?ということ。
『嫌い』と言ってる側の問題だけではないということを、どれだけの人間が理解しているかということ。


子どもの好き嫌いを、無理強いするから、他のところでも、ごちゃごちゃする。

人の『嫌い』を、テキトーにあしらうから、信頼されない。


人の『嫌い』を、素直に受け入れないから、いつまでも問題は解決しない。

いろんな人をコンサルしてきて、無理強いされてきた人間は、自分もどこかで人に無理強いする。
それも、本人は、無理強いしているという認識もなく。
わたしからしたら、『重症』だ。


それで、家庭内の問題、人間関係の問題、起こらない方がおかしい。


自分だって、自分が嫌いなもの(こと)を、無理強いされることは、最悪だろう。
それなのに、他人には、平気でやる。
笑い話ではなく、かなり深刻な心理状態なのだ。


相手の『嫌い』に、もっと寄り添うこと。
『嫌い=ダメ』というバカな価値観は、とっとと棄てることだ。


とはいえ、
スポーツの世界では、未だに無理強いの思考が残っているだろう。
(弱小チームになればなるほど、バカ思考だ。)


わたしは、無理強いされるような組織にいたことがないが、それでも、食べ物の好き嫌いがあったり、いろんな人間が集まっていた。


わたしは特段、食べ物の好き嫌いもなく、割とたくさん食べられるタイプなので、後輩の嫌いな食べ物も、コッソリお皿を変えて、食べていたこともある。笑

そんな様子を見て、その後輩は、少しずつ、嫌いなものをにも挑戦するようになった。
(わたしの食べっぷりを見て、美味しそうに見えたらしい笑)


わたしの長男も、スポーツをしているのだが、遠征先では、ご飯を3杯食べることになっているらしい。
長男は、そこまで大食いタイプではないので、さてどうするかなと思っていたが、毎回の遠征も何なくこなしていた。

ある時、わたしは長男に、
「ご飯、3杯は食べれてるの?」
と尋ねた。

すると、
「うん。水かけてるから。」
と、返事。

なるほど!
長男は、猫舌なのもあり、またスルスルと食べるために、小さい頃から、水やお茶をかけて食べることがあった。
わたしは、「それも、知恵だな。」と思い、許容していた。


聞けば、遠征先でのこと。
ご飯3杯のノルマ。長男は、指導者が見ていない隙に、ご飯に水をかけて、流し込む。

それを、繰り返していると、ある時、指導者と目が合い、
「お前、何してるんか?」
と、尋ねられたので、

「水かけてます。」
と、答えたら、

「お前、それで、食べられるのか?」
と、さらに尋ねられたので、

「はい。」
と、答え、そのまま、食べあげたらしい。

すると、指導者は、
「食べれない人は、Aの真似してもいいぞ!」
と、許容してくれたらしい。

これを機に、長男は堂々と、必殺技を使い、ご飯のノルマをこなしていると、笑いながら話してくれた。

わたしも「良い指導者に恵まれたな。」と思った。
(中には、行儀が悪いだの、非常識だの、自分の価値観をぶつけてくる大人もいるだろう。)


『食べる』ことが目的ならば、それをこなす技を持っておけば、生きづらさも少なくなる。


わたしが、食事のことで、子どもたちに伝えていることは、
「よそで食べる時は、出されたものは残さず食べなさいよ。そうしたら、また、食事に誘ってもらえるから。食事に誘ってもらえるのは、当たり前じゃない。お互いに気持ちが良いなと思えなければ、次はないから。」
ということ。

その反面、家での食事は、無理強いしない。


食事の時の「味覚」は、聴覚や視覚からの情報で変わることがわかっている。
ということは、誰と食べるか、どんな雰囲気で食べるかが、非常に大切ないのだ。


ただ、好き嫌いを無くせば良いということではない。
そこに、どれだけの信頼があるか。ということなのだ。