人間は、どこまでいっても、自分にしか興味がなく、いつでも主観でしか物事を見ようとしない。
いかに自分に都合の良いようにと考えるのが、人間だ。
そして、周りも自分のことを、自分と同じように考え、評価していると思っている。
わたしは、いつもそれを滑稽だと思っている。
人間は、時に、
敵わないと思う相手には褒め称える。
見下した相手には、「いいやん。いいやん。」と笑って、あたかも受け入れたような言葉を使い、容認したようなフリをして自分の都合良くその場をすりぬける。
これも、生きる術だ。
しかし、その相手が自分にとってどんな立場なのか?で、その選択がいつも正しいわけではない。
その選択をする自分の本音が「どうか?」だ。
褒め称えた時の自分の本音が、本当に褒め称えているのか、そうしなきゃ自分がここで気分良く過ごせないからそうしているのか、
自分が一番理解しておくことが大事だ。
「いいやん。」の言葉を、相手に対して本当に良いと思っているから使っているのか、そう言うことで自分に都合が良くなると思って使っているのか、
自分が一番理解しておくことが大事だ。
ただ、ここで、考えておかないといけないのは、その場面だけを切り取れば、自分と相手の2人だけの時間で起きていることだが、その時間は、のちに第三者にも影響がある可能性があるということだ。
例えば、
事実、かつあき先生の過去でも、かつあき先生に対し、「いいやん。いいやん。」と、チヤホヤしてきた仲間がいる。それを本当の友だちだと思い込んで、社会人になって20年の月日が流れていた。
20年後、400年ぶりの再会をわたしは「ドブネズミ」と評すことになる。どこをどう切り取っても使い物にならない。そんな人間を「いいやん。」とはどんな心境か。
以前、一度だけ、かつあき先生の過去の友人に、わたしなりの思いをぶつけた事がある。
「なにがいいの?どこがいいの?友だちなら、目の前にこんなドブネズミがいて、もっと気の利いた言葉をかけるんじゃないの?20年もの間、なんにもなってない。なんの糧があったの?どこに成長があったの?わたしは全く理解できない。」
人間は、どこまでいっても、自分にしか興味がなく、自分さえ良ければいいのだ。
例えば、
目の前の人間に対し、
「そういうと機嫌が悪くなって面倒くさいから言わない。」
という判断をする。そこで得られるのは、自分の保身だ。
しかし、そのあとに、「言わない」判断をされたばっかりに、前に進めず足踏みすることを強いられる存在が別にあることには、目は向かない。
「わたしが面倒くさいから、一緒にわたしのために我慢して。」
というのが、( )書きでついてきている。
そういう人間は、相手の前で言うことが違う。
Aさんの前では、「Bさんがそう言ってるから!」
Bさんの前では、「Aさんがそう言ったから!」
と、その意図や目的を伝えることなく、責任の所在は常に「誰か」にして、何よりも誰よりも、自分が守られることに安心する。
逃げていても乗り越えることは、ない。
時には、前向きに諦めることも大切だ。
しかし、自分の人生には、
時には勝つまで闘っていく時間も、絶対に必要なのだ。
かつあき先生は、闘って乗り越えた。自分に勝ったのだ。
それは険しい茨の道だった。決して1人では乗り越えられなかったが、闘い続けてきたからこそ新たな「仲間」が確実に存在している。