こんにちは。
いくえです。
これまで、わたしのことや、わたしがやってるメンタルコンサルティングについて、書いてきたわ。
これを読んでくださっている方々は、わたしのコアなファンだと思っているからこそ、書けるのかもしれないわね。笑
さて、実は、クラウドファンディングをやってみようか?と思ってたの。
なんのためにって?
講演活動をするために。
これまでわたしが経験してきたことを、わたしの口で伝えていけたら良いんじゃないか?って思ったの。
メンタルコンサルティングは、基本は1対1でのことよ。
しかも、わたしと対峙するって、それなりの勇気と覚悟が必要だわ。
だったら、講演活動を通して、わたしと直接対峙しなくても、わたしの話から、何か受け取ることができる人がいるんじゃないか?って、
一見、フツーの方々が抱える闇の部分に、何か小さな小さな風穴を通すことができるんじゃないか?って、思ったの。
ただね。支援をお願いするにしても、なんだか弱い気がするのよ。「コレっ!」っていうパンチが足りない気がするのよね。
人は、心が動かされなきゃ行動に出ないわ。
お金だって同じ。
何かを買うにしても、心が動くからよ。こういった支援だって、「すごい!」「面白い!」って感動するから、「支援したい!」って行動に移る。
わたしがやってることって、そりゃ大事なことだと、わたしは自負してる。
でも、側から見ている人たちからしたら、感動するような特別感みたいなものを、感じるのかしら?って。
人間は、「特別なもの」を求める傾向にあるわ。
病気・犯罪・ハンデ・死など、目に見えての特別なものだと、わかりやすくて反応しやすい。
例えば、わたしが、犯罪者の身元引受人の活動をやってるとするなら、きっとわかりやすい。
罪を犯してしまい、服役して罪を償い、更生していくというストーリーも、想像しやすい。ある程度のカリキュラムも存在して、警察や自治体の連携もあるから、土台もしっかりしている分、信用もある。
わたしがやってることは、フツーの方々を相手にしてる。
例え、罪を犯していても、捕まらないうちは犯罪者にはならない。平然とフツーに生活してる。
自分からは何も学ばない。深く考えない。考え方も知らない。自分の機嫌のことばかり優先して、周りに気を遣わせるのが当たり前。上手くいかないのは、全部周りのせい。
それで、当たり前に生活しているフツーの方々の中から、「あれ?このままでいいのかな?」と、気づいた人だけが、わたしに近づいてくる。
基本、目に見えるカリキュラムはなく、わたしに視える、その人の魂レベルで判断していく。
犯罪者にならないようにしてるんじゃない。
死なないようにしてるんじゃない。
「自分で考えて行動する」という基本的な部分に、深みを与えていく。というもの。
「自分はどんな人間になりたいのか」
「自分はどう生きたいのか」
あれしろ、これしろ、そんなことも言わない。
わたしが示すのは、ヒントと新たな選択肢。
その選択肢から、自分が経験していくものを選び、その経験の中で、価値観が広がり、自分の中の判断基準になる選択肢も増える。
その人が何を選ぼうが、その人の自由。
それに対して、わたしはわたしの考えを伝える。それは、わたしの自由。
自分の中の判断基準になる選択肢が増えれば、思考が変わる。
思考が変われば、行動や発言が変わる。
「より良く、生きるためにはどうしたらいいか?」
ただひたすら、その課題と向き合う者だけが、見ることのできる景色があるんだということだけ。
それは、本当の意味での【豊かさ】を身につけるコンサルでもある。
その人の【豊かさ】なんて、目には見えない。
その人が感じるものだから。
言ってしまえば、ものすごくファジーなものよ。
中には、わたしからしたら、それは「偽り」じゃない?と感じても、その人がそれで幸せだと言うなら、それで良いわけだしね。
自分勝手に生きてて、周りへの迷惑もわからない。周りからは、陰口で批判されてても、自分は気づかない。
でも、その人が何かで行き詰まって、自殺や家族と心中したら、批判していた周りは、今度は「かわいそう」って心が動く。
死ぬ前の、自分勝手に生きてるフツーの方々に、アプローチして、そこに「支援をお願いします。」って、それで人の心を動かすことができるのかしら・・・?って、疑問なのよね。
ただの、金を欲しがってる奴にしか見えないんじゃないかと思って。実際、お金はないんだけど。だから、クラウドファンディングって思ったのも事実。
だけど、目には見えないもので、第三者の人間の心を動かすって、かなり難しいことなんじゃないか?って思うのよねぇ。
みんなは、どう思う?