· 

思い込みを疑ってみる。


こんにちは。いくえです。

 

 

大嶋先生のブログ『一事が万事。』は、読んでいただけましたでしょうか?

 

彼のブログに書いていた、わたしが烈火のごとく憤慨した場面は、わたしも鮮明に覚えています。

[一事が万事][徹底力]って、言うは易く行うは難しで、訓練していかないと、簡単にできることではありません。

「責任を持つ」とか「徹底して」など、みなさん簡単に言いますが、訓練もせずに努めることは到底無理な話ではないか?と思います。

 

子育て中の方なら、子どもに求めることもあるでしょう。では、どこまでやって「責任を果たす」となるのでしょうか?そこまできちんと「答え」を示しているでしょうか?あなたの「答え」は、相手に伝わっているでしょうか?

 

 

あのブログの場面では、わたしの[一事が万事][徹底]の「答え」は、大嶋先生には伝わっていなかったのです。反対に、彼にとって、その言葉の意味は、そこまでのことだとも理解していなかったのです。

 

あの場面の後から、急にできるようになるなんてことはありません。もちろん、また場面が変われば、油断することもたくさんあります。その度に、訓練していくのです。ただ、全く同じミスをすることはありません。少しずつ少しずつ、前回のミスを生かし、考えて行動します。そこは、しっかりと受け入れます。

 

 

大人だからとか、子どもだからとか、一切関係ありません。知らないことは知らないのです。誰からも教えてもらえなければ、知らないままです。だって、こんなことって、自分で「あ!もしかしたら、これってこういうことかな?」なんて気づくパターンがあると思いますか?あなたの人生で、自分で「あ!」と気づいてきたことは、どのくらいありましたか?

 

 

大人だからと、知ったかぶりしている方が、よっぽど危険です。それで子育てをしているなら、なおさらです。

 

 

わたしも、こんな特別コンサルをする中で、「人間というもの」をたくさん学びました。本来なら、彼らはわたしの人生にきっと深くは関わらないタイプです。ですが、わたしの役目を全うする中で、わたしもまた、たくさんのことを学ばせてもらいました。学べば学ぶほど、彼らはわたしに、これを教えてくれるために、出会ったのかな?と思うことすらあります。

彼らが、「辛い」という人生も、わたしに教えてくれるためにあったのかな?と本気で感じるのです。

 

 

あるインスタグラムの投稿で、

《今まで自分の人生は、ついていないことばかりだと思っていたが、わが子の笑顔を初めて見た時に、今までの自分の人生は、このためにあったのかもしれない。》

というものがありました。

 

人生を、こんな風に解釈できたら、世の中、捨てたもんじゃない。この世はそんなに悪くない。と思えるのではないか?と感じます。

 

辛い人生だったと思っても、それがあったから、経験できたこと、知ったこと、考えたこと、たくさんある。だから結果、プラマイゼロ。

 

どうせ、人よりも辛い人生だと思えるなら、その分、人よりも学ぶことが多く、その分、賢くなってるんだ!と、思えなきゃ、本当に損しかない。わたしも、そう思って、この世を生きている1人です。

 

反対に、人よりも幸せだと感じるなら、それはそれで、人よりも学ぶことがたくさんあって、その分、賢くなれる!と思える。

 

結局、幸せだろうと辛かろうと、学べる人は学び、賢くなる人は賢くなる。

 

学べない人は、いつも誰かのせい。何かのせい。

どんな環境でも、自分に知恵があれば、どんな状態にでもできる。

 

たしかに、子どものうちは知恵は未熟です。だけど、何年も生きてれば知恵は身に付きます。

なぜか?

それは、考えるから。

 

 

前述のインスタグラムの投稿も同じです。それまではすべてが、誰かのせい、何かのせい。

それが、わが子の顔を見た途端に、それまでの経験が、知恵の宝庫に変わったのだと思います。わが子を、可愛いと感じ、この子を守りたいと考え出したら、ダメだと思っていた自分の人生が、途端に知恵で溢れ出した。

幸せが勝手にそうさせたのではなく、子どもがツールとなり、考えるということを始めた結果がもたらした事。

 

これは、子どものことを可愛いと思えなきゃ、そうはならないとか、そんなことではなく、きっかけなんてなんでもよ良くて、《こうだから、こうなんだ。》という決めつけではなく、《どうしたらいいのかな?》と素直に考え始めただけのことなのです。思っているよりも、シンプルなのです。

 

 

 

特別コンサルをしていると、毎回感じることがあります。

それは、その人にとっては失敗だと思っていることが、わたしにとってはまだ失敗ではないということが、とても多いのです。

 

その人は、それを失敗だと思っていて、焦ったり、イライラしたり。時には、誤魔化そうとしたり。わたしにとっては、それが失敗だと確定していないので、「じゃあ、どうしようかなー?」と次なる作戦を考えているので、お互いのテンションに差ができることも、しばしば。

 

わたしは、おそらく、思い込みを疑っているのだと思います。

《これは、こうしなきゃいけない。》

本当にそうなのか?

 

大事なところは、もっと違うところにあるんじゃないか?と。

 

 

大嶋先生のブログ『一事が万事。』にもあったように、満塁の場面で大概の人は、打たれないようにすることを考えます。

一見、それが正解のように見えますが、本当にそうなのか。。。?

 

打たれるか打たれないかは、自分がキャッチャーミットの方向に球を投げて初めて、成立することなのです。

 

打たれないようにと考える前に、自分が絶対にやらなきゃいけないことは、必ずキャッチャーミットの方向に投げること。

意外と、そのことを忘れてしまっている人が多いのです。

 

そして、力が入って暴投する。

「打たれないようにしたら暴投になりました。」

「打たれないようにしたから、暴投になりました。」

 

だから、また満塁の場面で同じことを繰り返す。

 

コントロールも気をつけなきゃいけない。打たれないようにしなきゃいけない。違う場面のことを同時に考えてやろうとする。

そんなチカラなんてないのに、自分を過信してる。

 

 

打たれないことを考える前に、もっと考えなきゃいけないことがあるんじゃないか?と、当たり前をだと思い込んでいることを、疑う。

 

 

本当に大事なことは何か?

自分にできる最低限のことはなにか?

それだけを考えることで、大半のことはまわるもの。

 

 

打たれるか、打たれないか。って、相手次第のところがあるから、自分にできることはどれだけやっても50%。

でも、キャッチャーミットに投げ込むのは、100%自分次第。

 

だったら、どんな時でも、必ずキャッチャーミットに投げ込むことができるように準備しておくことが、大前提のはずです。

 

目に見えることや、結果だけが『当たり前』じゃないかもしれないと、常に疑うことが大事なんだと、わたしは思うのです。

 

 

 

50%の失敗は、失敗だとは確定できませんよね。50%でも奈落の底に落ちる人もいれば、まだまだここから!と前に進む人もいるのです。